加勢ばかりしていらあ。おかしいですぜ」とひやかした。それをきくと、私はかあと耳のつけ根まで真っ赤になって、こんどは自分でも何をするのだか無我夢中に、無花果の木の下にいる、その女の子たちの方へその「水ピストル」を向けながら突進して行った。お竜ちゃんは無頓着《むとんじゃく》そうな、きつい目つきで、何をするのかといった風に、私の方を見つめていた。そういう私を見て、おどおどしながら庭の隅っこへ逃げていったのは、たかちゃん一人だった。
 細工場の方からみんなが面白そうに見ているものだから、私は騎虎《きこ》のいきおいでどうしようもなく、私の前に平気で立っているお竜ちゃんには、ほんの少し水をひっかける真似《まね》をしたきりで、あとは逃げていくたかちゃんを追っかけて、厠《かわや》の前まで迫いつめながら、頭から水をひっかけた。たかちゃんは、もう観念したように、両手で顔だけ掩《おお》いながら、私に水をかけられるままになっていた。
 無花果の木の下では、ほんのちょっと私に肩のあたりへ水をかけられた位の、お竜ちゃんが、いかにも口惜しそうに声を立てて、泣き出していた。……


     入道雲


 一月《ひとつき》のうちには一遍ぐらいこんなことがある。……
 もう夜になって、少年がそろそろ睡《ねむ》くなりかける時分から、見知らないお客たちが四五人きては、みんな奥の間にはいって、しばらく父や母をまじえて、あかるい、らちのない笑い声を立てているが、そのうちきまって急にひっそりとしてしまう。それからはときおり思い出したように、ぴしゃりぴしゃりと花札のかすかな音がするだけになるのだった。……
 それがはじまると、私は妙に神経が立って、いつまでも茶の間でおばあさんの傍《そば》などにむずかって、寝間着を着せられたまま、碁石などを弄《もてあそ》びながら起きていた。ときどき母がお茶などを淹《い》れに来たりすることがあっても、私はそっちを振り向こうともしないで、こわい目つきをして自分の遊びに夢中になっているようなふりをしていた。が、そのうち私はとうとう睡たさに圧《お》しつぶされて、茶の間に仮りに敷いてある蒲団《ふとん》に碁石なんぞを手にしたまま、うつ伏してしまうのが常だった。そんな場合には私は大抵もう一度夜なかに目を覚《さ》ましたが、それはもうお客たちが帰っていったあとで、丁度それまで寝入っていた私が、奥の寝床に移されかけているところなのであった。……
 そんな或る晩、おばあさんの傍でいつのまにか愚図りながら寝込んでしまっていた私は、夜なかのいつもの時分になって、ふいと目を覚ました。いつもとは大へん異《ちが》って騒々しいような気がしたが、丁度みんなが帰りかけているところらしく、唯《ただ》、おかしい事には、見かけない姿の人が混ざっていたり、私の父や母までがその人達と一しょに出ていってしまったようだった。……それに、いつになく、そのあとにはおばあさんや細工場の者たちがうろうろ出たり入ったりして、私が目を覚ましたことなんぞには一向気がつかないらしかった。私はやっと一人で起き上がると、しぶしぶと目をこすりながら、奥の間にはいっていった。いつもならもうちゃんと蒲団がとってある筈《はず》だのに、そこには誰もいないばかりでなく、明るい洋燈の光を空《むな》しく浴びながら、何もかもが散らかり放題になっていた。私は寝呆《ねぼ》けたように、その真ん中に坐ると、急に怒ったように、そこいらに散らばっていた花札を一つずつ襖《ふすま》の方へ投げつけ出した。……
 おばあさんはそんな私にやっと気がつくと、別に小言もいわず黙ってその花札を取り上げた。それからしばらくすると、私は半分睡ったまま、佐吉の背中におぶせられて、おばあさんと三人きりでおもてへ出た。それから私達は、おばあさんの手にした小さな提灯《ちょうちん》のあかりで、真っ暗な夜道を歩き出した。ところどころ風立った藪《やぶ》のそばなんぞを通り過ぎてゆくらしかった。私はときどき薄目をあけてはそういうものを見とがめ、一々それをおばあさんに訊《き》いたような気がする。すると、おばあさんはそれに二言三言返事をしてくれた。なにを言うたやらも私には分からなかったが、何か私の気を休めるのに一番好いことを言うてくれたと見え、私はすぐまた佐吉の肩にしがみついたまま、すやすやと寝入ってしまうのだった。……
 あくる朝、私が目を覚ましたのは、あの小梅の、尼寺にちかい、おばさんの家だった。私は一日じゅう元気がなく、しょんぼりとしていた。そして父や母のことさえ、なぜか、なんにも訊かなかった。午後になってから、おばあさんが私を近所の三囲《みめぐり》さまへ連れ出しても、その石碑の多い境内や蓮池《はすいけ》のほとりで他の子供たちが面白そうに遊んでいるのを、私はぼんやりと見守っているきりだった。
 夕方、私は佐吉が来たのを見ると、急にはしゃぎ出した。佐吉は何か二言三言おばさんやおばあさんに言っていた。すべてが片づき、佐吉は果して私を迎えに来てくれたのだった。そのときも私は甘えた気もちで、自分から佐吉におぶって貰《もら》って、家に帰った。家に着くと、父も、母も、ちっともふだんと変らない様子で、いかにも何事もなさそうに私を迎えた。私は何が何んだかよく分からないながら、子供特有の順応性で、そういうすべてのものをそのまま何んの躊躇《ちゅうちょ》もせずに受け入れた。そうして私は、そんな出来事のあったことさえ、若しもその結果として私のまわりに何んの変化も起さなかったならば数日のうちには忘れ去ったかもしれなかった。……

 ただ小さな私にもすぐ気のついたのは、そんな事があってから私のところへぱったりと誰も来なくなった事だった。最初のうちは、まだ私が家に帰って来ていないと思って遊びに来ないのだろうと思っていた。が、二日立ち、三日立ちしても、誰も一向やって来そうにもなかったので、私はやっぱり自分の留守の間に何か変った事があったのだろう位に思い出した。しかし、はにかみやの私はそんな事を人に訊くのは何かばつが悪いような気がして何も訊かずにいた。が、或る日、私は父に連れ出されて、ひさしぶりで業平橋《なりひらばし》の方まで行き、そこの駅の中で、ぴかぴか光った汽車が何処《どこ》か遠くのほうに向って出発するのをひととき見送ってから、いかにも満足した気もちになって、家の方に帰ってきたとき、路地の奥にいた二三人の子供たちが私たち父子を見ると急いで物蔭にかくれるのを私は認めた。その中の一人は確かにお竜ちゃんにちがいなかった。――私はやっとそれですべてが分かったような気がしたが、父には何もいわないで、ただ急に気の抜けたように、それまで父の手をしっかりと握っていた自分の手を心もち弛《ゆる》めた。……
 私はそれから当分の間誰れの顔を見るのもこちらから避けるようにしていた。お客などがあると、私は急いで庭の隅《すみ》へ逃げていって、そこで一人で遊んでいた。私はもうお竜ちゃんやたかちゃんの事なんぞはどうだって好いと思いながら、自分がそれまで彼女|等《ら》から受け取っていたすべてのものを、自分の大好きなあの無花果《いちじく》の木に――それだけがまだそっくり以前のまま私のまえに残されている一本の無花果の木に、求めようとし出していた。
「お母あさん」と或る日私は庭の中に母と二人きりでいるとき問うた。「おうちの無花果はいつ実《み》がなるの?」
「もうじきだよ……ほら、あんなにお乳が大きくなってきたろう……」といって、母はその枝にだいぶ目立つようになった、まだ青い実を私に指さして示した。
「早く食べられるようになるといいね。」私は母に同情を求めるように、いくぶん甘えながら言うのだった。
 みんなで楽しみにしていたその実がいくらたんと熟《な》っても、残らず自分一人で食べてしまうから。誰にだって分けてやりあしない。――そんな仕返しが私には、お竜ちゃんや、たかちゃんに対して、まあどうやら満足のできるような仕返しのように思えていた。
 その日々、私は、その無花果の木かげに花莚《はなむしろ》だけは前と同じように敷かせて、一人で寝そべりながら、そんな実の出来工合なんぞ見上げていたが、ときどき思い出したように跳《と》び起きて、見真似《みまね》で、その木へ手をかけて攀《よ》じ上がろうとしては、すぐ力が足りなくなって落ちてばかりいた。が、少しずつ手の痛さを我慢できるようになって、それから上へは攀じのぼれないまでも、だんだん一と所の幹にじっとしがみついていられるようになった。或る日、縁側から、母がそういう私らしくない乱暴な木登りを見ていた。いつもならすぐ私がそんな真似をするのを止《や》めさせる母は、そのときはぼんやりした顔をして、私がそんなあぶないことをするがままにさせていた。……

 或る日、母が又たかちゃんの手をとるようにして、私のところに連れてきてくれた。たかちゃんはしばらく逢《あ》わなかったので、すこし気まり悪そうな顔をしていたが、しかし私に対する昔の従順な態度を少しも変えていなかった。それが私に「どうして来なかったの?」と思い切って彼女に訊かさせた。と、たかちゃんはなぜか暖昧《あいまい》に「来ないって、お竜ちゃんと約束したんだもの」とだけ返事をした。私はなんだか悔しいような気がしたが、「どうして?」って、それ以上は訊こうともしなかった。そしてただ相手がたかちゃんだけでは何んだか物足りなさそうにしながらも、しかし何処かへ打棄《うっちゃ》らかしておいた、小さな皿や茶碗《ちゃわん》などを一所懸命に掻《か》き集めて、前と同じようなままごとを二人だけでしはじめた。それは大人たちの又かと思うような、いかにも単純な遊びだが、小さな子供というものは、それはときには目先きの変ったことを求めもするが、それにはすぐ倦《あ》いてしまって、またもとの、いつまで繰り返していても倦きることのないような、家常茶飯《かじょうさはん》的な遊びに立ち返っていくことを好むものだ。
「何かもっと他《ほか》のことでもして遊んだらどうなの? いつも同じことばかりしていないで……」母さえそういう私達を見ながら言うのだった。
 それが私を多少|羞《は》じらわせ、そんな女の子のような遊びを続けることを幾分ためらわせた。が、私はすぐ強情を張って、
「これがいいんだい……」とぶっきら棒に答えて、ねえ、たかちゃんと言うように相手の少女の方を見た。
「…………」たかちゃんは何か気まり悪そうに私の母の方を見上げ、ちらっと微笑《ほほえ》んで、それから私に同意をした。
 たかちゃんはそれから又毎日のように遊びにきた。たかちゃんは私と二人きりだけだと、いつも小さな母親のように私の世話を焼いたりするのが好きだった。最初はそういうおせっかいなやり方が、私には小うるさくて、気に入らなかったが、そのうち不意に、そういうたかちゃんに、これまで自分の母にしつけて来たが、そんなこともいまはちょっと出来にくくなったような幼い日の仕草を再び繰りかえす事に、――そういう事をもいかにも自然に行わせてくれる二人きりのままごと遊びに、妙な魅力のようなものを私は感じはじめた。小さな私がそんな自分よりももっと幼い子の真似《まね》をして、花莚にくるまって寝ていると、たかちゃんは小さな母親のように、上手《じょうず》にいろいろとあやしたり、赤まんまなどを食べさせる真似をしてくれたりするのだった。……
 そうやって母と子の真似をしあって遊んでいる私達を、いまは殆《ほとん》ど隠すばかりになった無花果の木の、厚い葉かげには、漸《ようや》っと大きくなった果実がだんだんと目立ち出していた。ときどき虫の食った、まだ青い果実がぽつんと一つ、鈍い音をさせて落ちてきた。それを手で無理に裂いてみると、白い乳のようなものを吐いた。私はそれをたかちゃんのおっぱいだといって、何か気ちがいのようにきゃっきゃっといってふざけながら、その乳汁を方々へこすりつけたりした。
 そんな夏ももう終ろうとする或る午後だった。それまで無花果の木かげで遊びにふけっていたたか
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