》に殆どじかに感じていた土の凹凸《おうとつ》や、何んともいえない土の軟《やわら》か味のある一種の弾性や、あるときの土の香《かお》りなどまでが……
 そうして私はそういうとき、自分の前に、或《ある》時はすっかり冬枯れて、ごつごつした木の枝を地中の根のように空へ張っていた、――或時は円い大きな緑の木蔭を落して、その下で小さい私達を遊ばせていた、一本の無花果の木をありありと蘇《よみがえ》らせる。――「私にとって、おお無花果の木よ、お前は長いこと意味深かった。お前は殆ど全くお前の花を隠していた……」とリルケの詩にも歌われている、この無花果の木こそ、現在では私もまた喜んで自分の幼年時代をそれへ寄せたいと思っている木だ。あたかも丁度私の幼年時代もまたその木と同じく、殆ど花らしいものを人目につかせずに、しかもこうやっていつか私に愉《たの》しい生《いのち》の果実を育《はぐ》くんでいてくれているとでも云うように……

 一人の少女は、お竜《りゅう》ちゃんといった。ちょうど私とおない年だった。きつい目つきをした、横から見ると、まるで男の子のような顔をした少女だった。どうかすると、ときどき私をそのきつい目でじっと見つめていた。――その目《まな》ざしを私はいまだによく覚えている。本当に覚えているのはその印象的な目ざしきりだが、――しかしそれだけを思い浮べただけで、もう忘れてしまっている顔の他の部分までが、何んとなくぼおっと浮んでくるような気さえされる位だ。……
 私の家の生籬《いけがき》の前に、そこいらの路地の中ではまあ少しばかり広い空地があったので、夕方など、よく女の子たちが其処《そこ》へ連れ立ってきて、輪をつくっては遊んでいた。
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ひらいた。ひらいた。何んの花ひらいた。
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 そういう女の子たちの歌声がそこから聞えて来ると、一人虫の私は、そっと生籬の中に出て、八ツ手の葉かげから、彼女たちの遊びを見ていた。大抵は余所《よそ》から遊びに来たらしい、私なんぞよりすこし年上の、知らない女の子たちばかりで、唯《ただ》、その輪の中にはいつも顔見知りのお竜ちゃんがはいっていた。お竜ちゃんはときどき輪の中から、八ツ手の葉かげの私の方をこわい目つきでじっと見つめては、急にみんなに手を引っぱられて、一しょに
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つぼんだ。つぼんだ。何んの花つぼんだ。
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 と少ししゃがれたような声で歌いながら、どうでもいい事をしているように輪をつぼめていったりしていた。そんな他の女の子たちとは異《ちが》った、どこか冷淡なような感じのする、そのお竜ちゃんの様子が、どういうものか、妙に私の心をひいた。
 そんな夕方のように、他の女の子たちと一しょでないと、よくその生籬のところで、お竜ちゃんは私と二人きりで遊んで行くようになった。どんなきっかけからだったかは忘れた。私はしかし、女の子の好んでするような遊びは何も知らなかったし、又気まりを悪がってその真似《まね》さえしようともしなかったので、お竜ちゃんは私がぽかんと見ている前で、よく一人でお手玉を突いたり何かして遊んでいたが、それに倦《あ》きると、「又、こんどね」といって、お手玉を袂《たもと》に入れて帰って行った。そのあとで、私はいつも仲好く一しょに何もしないのでお竜ちゃんに嫌《きら》われはしまいかと思った。
 或る日、お竜ちゃんが真面目《まじめ》そうに私にいった。
「こんどみんなが蓮華《れんげ》の花をするとき、一しょにおはいりなさいな?」
 私は気まり悪そうに首をふった。
「だって、何も知らないんだもの。」
「誰にだってじき覚えられるわよ、ね、一しょにしない?」
「…………」私はとても駄目そうに、首をふっているきりだった。
 お竜ちゃんは、それにもかまわずに、その遊びの手つきをしながら、一人で「ひらいた、ひらいた、ひらいたと思ったら見るまにつぼんだ」と例の少ししゃがれたような声で歌い出していたが、私がそれに少しもついて行こうとしないで、ただ熱心に見つづけていると、ふいと彼女は冷淡な様子をして止《や》めてしまった。
 が、その次ぎにみんなが又その生籬のところに来て、蓮華の花をやり出したとき、私が八ツ手の葉かげから見ていても、お竜ちゃんはみんなと手をつなぎ合ったまま、ときどき私の方をちらっちらっと見るきりで、知らん顔をして、みんなと遊びを続けていた。それに私だって、たとえお竜ちゃんが私を仲間に誘いに来ても、なかなかその遊びに加わろうとはしなかったろうが、それにもかかわらず、仲間はずれにされたように、私はいかにも淋《さび》しい、うつけたような顔をして、みんなの遊んでいるのをぼんやりと見ていた。……
 そんなときの私の幼い顔つきを、――その後、大きくなってからも、ときどき何かのはずみに――丁度そんな幼時の自分の場合に似て、半ば自ら好んでだが、一人きりみんなから仲間はずれにされているような場合に、――私はふいに自分がそんな幼い顔つきをしているのを感ずることがある。そういう場合に、すっかり大人寂《おとなさ》びた私にまで、何んとなく無性に悲しいような、それでいて何んともいえずなつかしい、誰かに甘え切りたいような気のされるのは、思えば、それはこういう自分の幼時に屡※[#二の字点、1−2−22]《しばしば》経験された、切ない感情の思いがけない生れ変りに過ぎないのだということが、いま漸《ようや》く、私にはっきりと分かって来る。……
 そういうちょっと誰にともつかず拗《す》ねたような気もちになっていたあとで、私はよく何も知らない母やおばあさんに、何んということもなしに、甘えられるだけ甘えて、いつまでもむずかっているより他《ほか》はしようのない自分自身を見出すのだった。しかし彼女たちだって、私の訴えるものを解せないので更にどうしようもなく、又そういう自分の心が何物によっても癒《いや》されないということが幼い私にも予覚せられていたのだったけれど、ただそうやっていつまでもむずかり、甘えていられる対象が自分の身近かにあるというだけで、それだけでもう少年には好かったのだった。

 お竜ちゃんは私と友達になったように、誰とでもすぐ友達になった。そうやってときどき一人でこっそりと私のところへ遊びに来ているかと思うと、急にまたちっとも来なくなってしまった。そうしてどこか余所でもって他の男の子や女の子たちと平気で遊んでいた。……私は自分と一番仲好しになって貰《もら》おうと思って、お竜ちゃんとうちの庭で遊ぶことを母に許して貰ったり、ままごと道具なんぞをいくつもいくつも買って貰ったりして、それとなくお竜ちゃんの機嫌《きげん》をとることを覚え出した。庭の一隅にある大きな無花果の木かげを、私はお竜ちゃんと二人でままごとなどして遊ぶ場所に決めていた。そうしてお竜ちゃんの来ないときも、いつもそこへ花莚を敷かせて、お竜ちゃんの来るのを心待ちにしながら、一人で遊んでいた。……お竜ちゃんの家には私の嫌いな腕白《わんぱく》の兄や弟たちがいるので、私は決して自分の方から彼女を呼びに行こうとはしなかった。そうしていつかやって来るにちがいない彼女のために新しく買ったままごと道具はそのまま別にして置いて、私は自分自身は古いので我慢して、それをいつもお竜ちゃんのする通りに花莚の隅《すみ》に並べたりしていた。……
 或る日、私がそうやって一人で無花果の木かげで余念なく遊んでいると、私の母が何処《どこ》からか、一人の見かけない女の子を連れて来た。
「この子と遊んでやって頂戴《ちょうだい》ね。」そう母はその子にいって、私の傍に彼女を置いていった。その女の子は、痩せた、顔色のわるい、しかしその黒味がちな目にしっとりと美しい艶《つや》をもった子だった。そうして粗末な、つぎはぎだらけな着物をきていた。私はまだその女の子とは言葉も交《か》わさないうちから、その子に対してはもう半分馬鹿にしたような態度をとり出した。その女の子は、そんな私をすこし持て余すようにしていたが、おとなしい性質と見え、何をしても私のするがままになっていた。しかし、同じままごと遊びをするにしても、お竜ちゃんだったら何をしても私の気に入るように出来たのに、その女の子と来たら、一所懸命に私のために何をやっても、私の気に入るようには出来なかった。
 私はお竜ちゃんのために大事にとってある上等な道具はその子と遊ぶときには使わない事にして、もうさんざ使い古した、そして半端《はんぱ》になったような、ちぐはぐな皿や茶碗《ちゃわん》でばかり遊んだ。そうして庭の隅っこに咲いている赤まんまの花なんぞも、私は立派なのは残しておいて、すこし萎《しお》れかけたようなのや、いじけたようなのばかり採って来た。
 それでもその女の子は始終おずおずしたような微笑を浮べながら、おとなしく私について遊んでいた。そうやって私は自分勝手なことばかりやって、まるで相手を眼中に置かぬようにして遊んでいるうちに、何か急にその女の子と遊ぶのが厭《いや》になると、ぷいと立って、その子を無花果の木の下に残したまま、自分だけ家のなかへはいってしまったりした。すると、その女の子は何もしないで、一人でいつまでも、花莚の上に坐ったまま、私を待っていた。縁側で縫物をしていた母は、それに気がつくと、何か小声で私を叱《しか》りながら、お菓子を紙につつんで、その女の子のところへ持っていってやりながら、「又遊びに来てね」といって、その女の子を帰らせた。私はそれを見ながら、知らん顔をして、一人で何か他の玩具を手にして遊んでいた。
 そのもう一人の少女は、たかちゃんといった。本当に気立てのやさしい子で、私の母のお気に入りだったが、たかちゃんがそういう子であればあるだけ、私はいよいよ好い気になって意地悪ばかりをしつづけた。しかしたかちゃんは私にそうされる事は当り前であるかのように、すこしも気にしないで、毎日のように遊びにきた。そのうちに又ひょっくり、機嫌買いのお竜ちゃんも遊びにくるようになった。そうやって三人で遊び合うようになってからだっても、お竜ちゃんはますますその本領を発揮した。しかしおとなしいたかちゃんは私にばかりでなく、そういう利《き》かん気のお竜ちゃんに対しても、すべて控え目にしていた。そのために殆ど仲違《なかたが》いもせずに、三人で仲好く遊びつづけていられた。尤《もっと》も、ときどき女の子同志で小さな諍《いさか》いをし合っても、いつも私がお竜ちゃんの味方をするので、すぐそれはおしまいになった。それは初夏の日々だった。いまは厚い大きな葉を簇《むら》がらせた無花果の木が、私達に恰好《かっこう》のよい木蔭をつくっていてくれた。私達はときどき花莚の上に三人ともごろりと寝そべって、じっとその下に冷たい土の肌《はだ》ざわりを感じ合ったりしていた。それは私達に睡気《ねむけ》を誘うほど気もちがよかった。
 ときどき四つ目垣の向うの、或《あるい》は高く或は低く絶えずかちかちと鉄槌《かなづち》の音を響かせている細工場の中から、(父は屡※[#二の字点、1−2−22]《しばしば》留守だった……)、よく頓狂《とんきょう》な奴だとみんなから叱られてばかりいた佐吉という小僧が、何かの用に立ったりしたついでに、私達をからかったりした。それをきくと、お竜ちゃんは本気になって怒って、それに何か云いかえしたりした。たかちゃんの方は黙って気まり悪そうに下を向いたきりでいた。私ははじめは知らん顔をしていたが、お竜ちゃんがあんまり口惜《くや》しがったりすると、家のなかではこわいもの知らずの私は、「水ピストル」を手にして、向う見ずに細工場の方へ飛び込んでいって、それを佐吉にさしつけながら、頭から水をぶっかけた。佐吉は前掛けを頭からかぶって逃げまどいながら、しまいには頓狂な声をあげて、降参の真似をした。
 それから私が得意そうに、二人の少女が小気味よげにそれを見ている木蔭へ戻って行こうとすると、又佐吉が性懲りもなく、背後から、
「弘《ひろし》さんったら、女の子の
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