ういうところからそれが来るかは、勿論、私は知りようもなかった。
その頃、私はよく両親に伴われて、すぐ川向うの、浅草公園へ行った。そうして寄席《よせ》へ連れて行かれたり、活動写真を見て来たりした。又、おばあさんとだけやらされるときもあったが、そんなときには私はいつも球乗《たまの》りや花屋敷などへ彼女を引っぱって行った。(それらの事はまた他の機会にも書けるだろう。――)しかし一番、母だけに連れられて行くことが多かったが、そういう折にはいつも観音《かんのん》様とその裏の六地蔵様とにお詣《まい》りするだけで、帰りには大抵|並木町《なみきちょう》にある母方のおばさん(其処《そこ》のおじさんはきん朝さんという噺《はな》し家《か》だった。……)の家に寄ったり、それからそのおなじ裏通りの、もう少し厩橋《うまやばし》よりにある、或る小さな煙草屋の前まで私を連れて行った。その頃その煙草屋の二階に、皆がおよんちゃんといっている、一番小さなおばさんが一人で間借りをしていた。母は、私をすこし離れたところに待たせて、決して上へはあがらずに、そのおよんちゃんを外へ呼び出して、暫《しばら》く夕やみの中で何か立ち話をし合っていた。およんちゃんはときどき私の方を気にして見たりしていた。何か、泣いているらしいときもあった。私は往来に立ったまま、そっちの方はなるべく見ないようにして、そんな夕がたの町裏の見なれない人の往き来を熱心に見ていた。
そんな夕方の帰りなんぞには、私はいつもよりか大人しく母の手に引かれて、絵双紙屋の前を通っても何んにもねだらずに、黙って歩いていた。夕方遅くなったりなんぞすると、母は吾妻橋《あずまばし》の袂《たもと》から俥《くるま》をやとって、大川を渡って帰った。そんなとき、私は母の膝《ひざ》の上に乗せられるのが好きだった。……
母がまだ父と一緒にならないうちに、向島《むこうじま》の土手下に私とおばあさんだけと暮らしていた時分、小さな煙草屋をやっていたと云う話を、私が誰からきくともなしに知り出していたのも、丁度その頃だった。そのせいか、そんな裏通りなんぞにある、みすぼらしい煙草屋の二階にその小さなおばさんが一人で間借りしているのが、何か、子供の私にも悲しくて悲しくてならなかった。(が、今日の私が、自分の幼年時代の思い出のなかに見出《みいだ》す幸福という幸福のすべてが、いかにそれらの子供らしい悲しみにまんべんなく裏打ちされていることか!……)
そのおよんちゃんの間借りしている煙草屋からの帰りみち、駒形《こまがた》の四つ辻まで来ると、ある薬屋の上に、大きな仁丹《じんたん》の看板の立っているのが目《ま》のあたりに見えた。私はその看板が何んということもなしに好きだった。それにも、大概の仁丹の広告のように、白い羽のふわふわした大礼帽をかぶり、口髭をぴんと立てた、或《ある》えらい人の胸像が描かれているきりだったが、その駒形の薬屋のやつは、他のどこのよりも、大きく立派だった。それで、私はそれが余計に好きだったのだ。そして帰りがけにそれを見られることが、そうやっておばさん達のところへ母に連立って行くときの、私のひそかな悦《よろこ》びになってもいた。
その後、私はそのおよんちゃんという人が、目の上に大きな黒子《ほくろ》のある、年をとったおじいさんみたいな人と連れ立って歩いているところを二度ばかり見かけた。一度は私が父と一しょに浅草の仲見世《なかみせ》を歩いているときだった。それからもう一度は、並木のおばさんの病気見舞に行って母と一しょに出て来たとき、入れちがいに向うから二人づれでやって来るところをぱったりと行き逢《あ》った。その目の上に大きな黒子のあるおじいさんみたいな人は、母とは丁寧な他人行儀の挨拶《あいさつ》を交《か》わしていたが、私には何んとなく人の好い、親切そうな人柄のように見えた。
小学生
とうとう幼稚園へはあれっきり行かずに、それから約一年後、私はすぐ小学校へはいった。
その小学校は、私の家からはかなり遠かった。それにまだ、その町へ引越してから一年も立つか立たないうちだったので、同じ年頃の子とはあまり知合のなかった私は、その町内から五六人ずつ連れ立っていく男の子や女の子たちとは別に、いつまでも母に伴われて登校していた。そうして学校へ着いてからも、他の見知らぬ生徒たちの間に一人ぼっちに取残されることを怖《おそ》れ、授業の終るまで、母に教室のそとで待っていて貰《もら》った。最初のうちは、そういう生徒に附き添って来ていた母や姉たちが他にもあったけれど、だんだんその数が減り、しまいには私の母一人だけになった。
まだ授業のはじまらない前の、何んとなくざわめき立った教室の中で、私は隣りの意地悪い生徒にわざとしかめ面《つら》なぞをさ
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