幼年時代
堀辰雄

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)無花果《いちじく》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)その一番|隅《すみ》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#二の字点、1−2−22]
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     無花果《いちじく》のある家

 私は自分の幼年時代の思い出の中から、これまで何度も何度もそれを思い出したおかげで、いつか自分の現在の気もちと綯《な》い交ぜになってしまっているようなものばかりを主として、書いてゆくつもりだ。そして私はそれらの幼年時代のすべてを、単なるなつかしい思い出としては取り扱うまい。まあ言ってみれば、私はそこに自分の人生の本質のようなものを見出《みいだ》したい。
 私は四つか五つの時分まで、父というものを知らずに、或る土手下の小さな家で、母とおばあさんの手だけで育てられた。しかし、その土手下の小さな家については、私は殆《ほとん》ど何んの記憶ももっていない。
 唯《ただ》一つ、こういう記憶だけが私には妙にはっきりと残っている。――或る晩、母が私を背中におぶって、土手の上に出た。そこには人々が集って、空を眺《なが》めていた。母が言った。
「ほら、花火だよ、綺麗《きれい》だねえ……」みんなの眺めている空の一角に、ときどき目のさめるような美しい光が蜘蛛手《くもで》にぱあっと弾《はじ》けては、又ぱあっと消えてゆくのを見ながら、私はわけも分からずに母の腕のなかで小躍《こおど》りしていた。……
 それと同じ時だったのか、それとも又、別の時だったのか、どうしても私には分からない。が、それと同じような人込みの中で、私は同じように母の背中におぶさっていた。私はしかしこんどは何かに脅かされてでもいるように泣きじゃくっていた。私達だけが、向うから流れてくる人波に抗《さか》らって、反対の方へ行こうとしていた。ときどき私達を脅かしているものの方へ押し戻されそうになりながら。そしてその夢の中のようなもどかしさが私を一層泣きじゃくらせているように見えた。――それは自家が火事になって、母が私を背負って、着のみ着のままで逃げてゆく途中であったのだ。……
 その当時には、まだその土手下のあたりには茅葺屋根《かやぶきやね》の家がところどころ残っていたが、或る日、花火がその屋根の一つに落ちて、それがもとで火事になったのである。――ずっと後になって、私はそんなことを誰に聞かされるともなく聞いて、それをいつか自分でもうろ覚えに覚えているような気もちになっていたと見える。しかし私はそれを誰にも確かめたわけではないから、ことによると、唯《ただ》そんな気がしているだけかも知れないのだ。一体、私はそういう自分の幼時のことを人に訊《き》いたりするのは何んだか面映《おもは》ゆいような気がして、自分からは一遍も人に訊いたことはない。そして私はそれらの思い出がそれ自身の力でひとりでに浮び上がってくるがままに任せておくきりなのだ。
 そんな私のことだから、その頃のことは他には殆ど何一つ自分の記憶には残っていない。そういう中で、唯一つ、前述の記憶だけが妙にはっきりと私に残っているというのは、その火事の話が事実でないとすれば、恐らく昼間のさまざまな経験が寄り集って一つの夢になるように、自分のまだ意識下の二つの強烈な印象が、その他の無数の小さな印象を打ち消しながら、そうやって一つの記憶の中に微妙に融《と》け合ってしまっているのかも知れない。(註一)

 私の意識上の人生は、突然私の父があらわれて、そんな佗住《わびずま》いをしていた母や私を迎えることになった、曳舟通《ひきふねどお》りに近い、或る狭い路地の奥の、新しい家のなかでようやく始っている。そこに私達は五年ばかり住まっていたけれど、その家のことも、ほんの切れ切れにしか、いまの私には思い出せない。が、その頃の事は、その家ばかりではなく、私に思い出されるすべてのものはいずれも切れ切れなものとして、そしてそのために反《かえ》ってその局所局所は一層鮮かに、それらを取りかこんだ曖昧糢糊《あいまいもこ》とした背景から浮み上がって来るのである。

 私のごく幼い頃の、父の姿も、母の姿もあんなによく見慣れていた癖に、少しもはっきりと思い出せない。しかし、そのころ皆で一しょに撮《と》った何枚かの写真の中の彼|等《ら》の姿だけは、ときおりしかそれを取り出して見なかったせいか、いまでも私の裡《うち》にくっきりと――それだけ一層実在の人物から遠ざかりながら――蘇《よみがえ》ってくるのである。震災で何もかも焼いてしまったそれらの写真には、大概、椅子に腰かけた母と、その椅子の背にちょっと手を
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