かけながら立っている父との間に、小さな私はいつも口をきっと結んで、ちょこんと立っている。青い天鵞絨《びろうど》の帽子をかぶらないで、それを唯しっかりと手に握りながら。(その大好きな帽子なしには私は決して写真を撮らせなかった……)
 それらのアルバムの中に、それだけ何んだか他のとは不調和なような気のする、一枚の小さな写真があった。それは私の母の若いときのだという、花を手にした、痩《や》せぎすの女の肖像だった。おひきずりの着物をきて、坐ったまま、花活《はない》けを膝《ひざ》近く置いて、梅の花かなんか手にしている。……それが母の二十ぐらいのときのだという。が、小さな私にはどうしてもその写真の人が私の母だとはおもえなかった。そしてそれからずっと後までも、私はそういう若い女の姿で自分の母を考えることは何か気恥しくって出来ずにいた。

 そういう父や母の姿にひきかえて、おばあさんの姿は、その懐《なつ》かしい顔の一つ一つの線から皺枯《しわが》れた声まで、私の裡に生き生きと残っている。母が父と一しょの家に住まうようになってから、おばあさんはずっと私達のところに居きっきりではなしに、ときおりしか姿を見せなくなったから、反ってそうなのかも知れない。おばあさんはそうやって私達の家に一月位ずつ泊っていては、又いつか私の知らない裡に其処《そこ》から居なくなっているのだった。――何かの拍子に、そのおばあさんの居ないことをしみじみと感じると、私はときどき彼女を無性に恋しがって泣いた。私は誰よりもおばあさんに甘えていたせいばかりではなかった。私には年とった彼女が私達の居心地《いごこち》のいい家にいないで、何処《どこ》かよその家に行っているのが、何んだかかわいそうな気がしてならないのだった。そうやって私が彼女のために泣き、彼女を恋しがっていると、或る日またひょっくりとおばあさんは私の前に現れるのだった。
 おばあさんは私の家にくると、いつも私のお守《も》りばかりしていた。そうしておばあさんは大抵私を数町先きの「牛の御前《ごぜん》」へ連れて行ってくれた。そこの神社の境内の奥まったところに、赤い涎《よだれ》かけをかけた石の牛が一ぴき臥《ね》ていた。私はそのどこかメランコリックな目《まな》ざしをした牛が大へん好きだった。「まあ何んて可愛《かわ》いい目んめをして!」なんぞと、幼い私はその牛に向って、いつもおとなの人が私に向って言ったり、したりするような事を、すっかり見よう見真似《みまね》で繰り返しながら、何度も何度もその冷い鼻を撫《な》でてやっていた。その石の鼻は子供たちが絶えずそうやって撫でるものだから、光ってつるつるとしていた。それがまた私に何んともいえない滑《なめ》らかな快い感触を与えたものらしかった。……
 その神社の裏は、すぐ土手になっていて、その向うには大川が流れていた。おばあさんはその土手の上まで私の手を引いて連れていってくれることはあっても、もしかして私が川へでも落ちたらと気づかって、いつも土手のこちらから、私にその川を眺めさせているきりだった。そうしていても、葦《あし》の生《お》い茂った間から、ときどき白帆や鴎《かもめ》の飛ぶのが見えた……
 子供の私はそれだけで満足していた。そして決して他の子供たちのようにおばあさんの手をふりほどいて、もっと川のふちへ行きたがったりして、おばあさんを困らせるような事は一度もしなかった。子供たちの持つすべての未知のものに対するはげしい好奇心は私にも無くはなかったが、内気な私はそのためにおばあさんを苦しめるような事までしようとはしなかった。二人は互にやさしく愛し合っていた。そして私はいつもおばあさんが木蔭《こかげ》などにしゃがんだまま、物静かに、何か漠《ばく》とした思い出に耽《ふけ》っているそばで、おとなしく鴎の飛ぶのを見たり、石の牛を撫でたりしていた。

 その頃私達の住んでいた家のことを思い出そうとすると、前にも書いたように、それはごく切れ切れに――例《たと》えば、秋になるとおいしい果実を子供たちに与えてくれた一本の無花果の木や、そのほかは名前を知らないような木が二三本植わっていた小さな庭だとか、いつも日あたりのいい縁側だとか、そこから廊下つづきになった硝子張《ガラスば》りの細工場《さいくば》だとかが、――一つ一つ別々に浮んでくるきりである。そしてそういうものよりも一層はっきりと蘇ってきて、その頃のとりとめのない幸福を今の私にまでまざまざと感じさせるものは、私の小さいブランコの吊《つる》してあった、その無花果の木の或る枝の変にくねった枝ぶりだとか、あるときの庭土の香《かお》りだとか、或いはまた金屑《かなくず》のにおいだとか、そういった一層つまらないものばかりだ。……
 私の父は彫金師《ほりものし》だった。しかし、主
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