に、それに対してただ一人ぎりで立ち向わせられていたのだった。そのとき、その縁先きまで押しよせてきている黝《くろ》い水や、その上に漂っているさまざまな芥《あくた》の間をすいすいと水を切りながら泳いでいる小さな魚や昆虫を一人で見ているうちに、ふと私の思いついたものは、こないだ買って貰《もら》ったばかりの新しい玉網だった。そんな小さな魚や昆虫がそういう得体の知れないような黝い水の上をも、まるで水溜りかなんぞのように、いかにも何気なさそうに泳いでいるのを見ているうちに、それら小さな魚や昆虫のもっている周囲への無関心さとほとんど同様のものが私のうちにも自然と生じてきたのかも知れない。……私はふとそれを思いつくと、どこからか自分でその玉網を捜し出してきて、縁先きにしゃがんで、いかにも無心に、それでもって小さな魚を追いまわしていた
何処かで半鐘が、間を隔《お》いては、鳴っていた。
細工場の方の棚は漸っと出来上ったらしかった。箪笥《たんす》や何かが次ぎ次ぎにその上に移されていった。その次ぎはもう、そこで水籠《みずごも》りをすることになった父たちを残して、私と母とが神田の方へ避難するばかりだった。近所の水の様子を見にやらされた弟子の佐吉は、膝《ひざ》の上まで水に浸ってじゃぶじゃぶやりながら、外へ出ていった。
その間に母は私にすっかり避難をする支度《したく》をさせた。最後まで私が手離さないでいた玉網も、とうとう父に取り上げられた。そうやって父や母などに一しょにいだすと、一人でいたときはあれほど平気でいられた私は、俄《にわ》かにわけの分からない恐怖のなかへ引きずり込まれてしまった。そうして一度無性に怯《おび》え出してしまうと、幼い私のなかの、大人の恐怖は、もう私一人だけでは手に負えなかった。
一方、いままではちゃんと間を隔《お》いて鳴っていた近所の半鐘の方も、そのとき突然自分の立てつづけている音に怯え出しでもしたかのように、急に物狂おしく鳴り出していた。
それを聞いて一層私が怯えるので、最初は父は溝《みぞ》の多い路地を抜けたところまで私達に附添ってくる積りだったのに、とうとう母と、佐吉に背負われた私とについて、全く水の無くなる土手上まで来なければならなかった。土手の上は、私達のような避難者で一ぱいだった。父は大川端《おおかわばた》へ行って、狂おしいように流れている水の様子を眺めてから、再び一人で水漬《みずつ》いた家々の方へ引っ返していった。
私達は、その土手の混雑のなかで、同じように女子供だけで何処かへ避難しようとしているお竜ちゃんの一家のものにひょっくり出会った。本当にひさしぶりでまともに顔を見合わせたお竜ちゃんと私とは、そういう思いがけない邂逅《かいこう》に、思わず二人ともにっこりともしないで、怒ったように真面目《まじめ》に見つめ合った。母たち同志が二言三言立ち話をし合っている間、水の中を自分で歩いてきたらしいお竜ちゃんは、佐吉におぶさっている私の傍にきて、そんな恰好《かっこう》をしているところを見られて一人で羞《はずか》しがっている私を、しかし何とも思わないように、只なつかしそうに見上げながら、
「弘ちゃんたちは何処へ行くの?」ときいた。
「…………」私ははにかんで、口もきかれなかった。
「神田の方ですよ」いつもお竜ちゃんと仲の悪い佐吉が、私に代って突慳貪《つっけんどん》な返事をした。
「…………」お竜ちゃんはそんな佐吉の方を憎そうに見かえして、それから、「ほんとう?」ときくように私の方を見上げた。
私はただ首肯《うなず》いて見せた。
「私たちは王子へ行くの……ずいぶん遠いのよ……」お竜ちゃんは何か私に同情されたいように云った。
それきりで私達は別れなければならなかった。
が、こういうような出来事のおかげで、お竜ちゃんとこうやって思いがけず仲直りのできたのが、私には本当に嬉《うれ》しかった。逢《あ》ったのがたかちゃんの方でなくってよかった、そんなことまで私は子供らしい身勝手さで考えた位だった。それもただお竜ちゃんに逢えただけではない、このまますぐ別れるのでなかったら再び昔のように仲好くなれそうになった事で、私は小さな胸を一ぱいにさせていた。そのためそんないつまた逢えるかも知れない別離そのものさえ、殆ど私を悲しませなかったほどだった。
私達の避難したのは、神田の或《ある》裏通りにある「きんやさん」という、父の懇意にしていた、大きな問屋だった。
その昔風の、問屋がまえの、大きな家は、昼間から薄暗かった。細い櫺子《れんじ》の窓からだけ明りを採り入れている部屋部屋の、ずっと奥まった中の間のような所に、私達は寝泊りしていた。そうして私達はいつもおおぜい人のいる店の方へはめったに行かないで、狭い路地にひらかれている、裏の小さなくぐ
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