り戸から出這入《ではい》りしていた。そういう商家のすべての有様が少年にはいかにも異様だった。……
そこに私達が何日ぐらい、或《あるい》は何箇月ぐらい泊っていたか、覚えていない。それからその家の主人の、「きんやさん」といつも私の父母が親しそうにしていた大旦那《おおだんな》のことも、それから私達の世話をよくしてくれたそのお内儀《かみ》さんのことも、殆ど私の記憶から失われている。それからもう一人、――たとえ偶然からとはいえ、私が自分の人生の或物をその人に負うているのに、いつか私の記憶から逸せられようとして、あやうくその縁に踏み止《とど》まっているといったようなのは、その日々私をたいへん可愛がってくれた店の若衆の一人だった。よくお昼休みなどに、彼は私をその頃まだ私には珍らしかった自転車に乗せて、賑《にぎ》やかな電車通りまで連れていってくれた。そこの広場には、はじめて私の見る怪物のような、大きな銅像が立っていた。その近くにはまた一軒の絵双紙屋があった。その絵双紙屋で、彼は私のためにその一冊を何気なく買ってくれたりした。……
恐らく私は他の誰かに他の本を与えられたかも知れなかった。それはそれでも好かったろう、――が、ともかくも、はじめて自分に与えられた一冊の絵双紙くらい、少年の心にとってなつかしいものはない。――さて、私に与えられたその絵双紙というのは、その或一枚には、大雪のなかに、異様な服装をした大ぜいの義士たちが赤い門の前にむらがって、いまにも中へ討ち入ろうとしている絵が描かれてあった。又他の一枚には、雪の庭の大きな池にかかった橋の上に、数人の者が入り乱れて闘っていた、そしてそのうちの若い義士の一人は、刀を握ったまま池の中に真逆様《まっさかさま》に落ちつつあった。……それらの闘っている人々は、いずれも、日頃私が現実の人々の上に見かけたことのないような、何んとも云えず美しい顔をしていた。私はそれがどういうドラマチックな要素をもった美しさであるかを知らない内から、その異常な美しさそのものに惹《ひ》かれ出していた。後年、私は何度となくそれと類似の絵双紙を見、それを愛した。そうして私もだんだん大きくなり、それの劇的要素が分かるようになりだした頃には、そのときはもう私は、――それが何んの物語を描いた絵だかもさっぱり分からずに見入りながら、しかも一種の興奮を感ぜずにはいられなかった、――そういうはじめてそれを手にしたときの幼時の自分に対するなつかしさなしには、その物語を味《あじわ》われなくなっていた。たとえば、はじめて物語の世界、いわば全然別箇の世界を私に啓示するきっかけとなった、それらの雪の日の絵だけを例にとって云えば、私はその絵を見る度毎《たびごと》に、それをはじめて母の膝下《ひざもと》でひもといた、或古い家のなんとなく薄暗い雰囲気《ふんいき》を、知らず識《し》らずの裡《うち》に思い出さずにはいられないのだ。――そうしてまた同時にその思い出の生じさせる一種の切なさにちがいないのだ、私がいつもその雪の絵を見るたびに感ずる何処か遠いところから来る云い知れぬ感動のようなものは……
その絵双紙に次いで、もっと他の絵双紙が私のまわりにだんだん集って来て、私の前に現実の世界に対抗できるほどの新しい見事な世界を形づくり出したのは、しかし、その神田の家を立ち去ってからであった。
私の父は、向島の水漬いた家からときどき私達に会いに来た。一時は軒下までも来た水ももうすっかり去ったが、そのあとの目もあてられない程にひどくなっていることを話し、何処かにしばらく一時借住いしなけれはならない家の相談などを母たちとし合ったりしていた。
幼い私は、父が来てそんな話をしていく度毎に、そんなわが家のことなどは思わず、唯《ただ》、ながいこと可哀そうに水につかっていた無花果の木のことだの、どこかへ流れ去っただろう玉網のことだの、それから其処《そこ》から引越してしまえば、もう会えなくなってしまうだろうお竜ちゃんのことだの、それから少し、たかちゃんのことだのを、切なく思い出していた。
芒《すすき》の中
「ほら、見てごらん」と父はその家の壁のなかほどについている水の痕《あと》を私達に示しながら、「ここいらはこの辺までしか水が来なかったのだよ。前の家の方はお父さんの身丈《みたけ》も立たない位だったからね。……」
その私達の新しく引越していった家は、或る華族の大きな屋敷の裏になっていた。おなじ向島《むこうじま》のうちだったが、こっちはずっと土地が高まっていたので、それほど水害の禍《わざわ》いも受けずにすんだらしかった。前の家ほど庭はなかったが、町内は品のいい、しもた家《や》ばかりだったから、ずっと物静かだった。
引越した当時は、私の家の裏手はまだ一めんの芒原《
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