ずに、ひたすら帰りをいそいでいた私達は、はじめてほっとし出した。そうして最初に沈黙を破ったのは、それまで私のために気づかって、かえっていつまでもそれを気にしすぎていることで一層私を不機嫌《ふきげん》にさせていた、不幸な少女の方だった。
「さっきの水たまりには小さなお魚が泳いでいたわね」そうおずおずした思い出し笑いのようなものを浮べながら、少女はそっちの方を振りかえって見た。
「ああ、ぼくも見た……」私もやっと自分自身にかえったように、急に元気よく言った。
 そう言い合いながら、二人は、それまで無我夢中になって歩いてきた野の方を、それを最後のように振りかえった。野の上には、二人の過《よ》ぎってきた途中の水たまりが、いまも二つ三つ日に反射していた。そのまたずっと彼方の、地平線の方には、二人のまだ見たこともないような大きな入道雲が浮び出していた。(実はさっき野原を横切っているときから二人には気になっていたのだった……)それが、いま、極《きわ》めて無気味な恰好に拡がって、もうずっと遠くになった硝子工場の真上に覆《おお》いかぶさろうとしているところだった。さっきから二人を脅かしつづけていたもの、やっとのことで二人がその兇手《きょうしゅ》から逃《のが》れ出してきたものが、いまや、もう二人が追いつきようのないほど遠ざかってしまったものだから、やむを得ずにとうとうその正体を現し、そんな凄《すさま》じい異形《いぎょう》をそこでし出してでもいるかのように、二人には見えるのであった。……


     洪水


 そういう夏が終って、雨の多い季節になった。
 毎日が雨のなかにはじまり、雨のなかに終っていた。そういう雨の日を、たかちゃんも遊びに来ず、私はよく一人で硝子戸《ガラスど》に顔をくっつけて、つまらなそうに雲のたたずまいを眺《なが》めていた。それを眺めているうちに、いつか自分の呼吸《いき》で白く曇り出している硝子に、字とも絵ともつかないような、それでいて充分に描き手を楽しませる模様を描いては、それを拭《ぬぐ》わずにそのままにして、又ほかの硝子戸にいって雨を眺めていた。
 そんな硝子の模様は、あたかも私自身のいる温かい室内の幸福を証明しているかのように、いつまでも残り、それに反して、それ等を透かして見えている雨にびしょ濡《ぬ》れになった無花果《いちじく》の木をば、一層つめたく、気持わるそうに私に思わせていた。その無花果の木は、漸《ようや》っと大きく実らせた果《み》を、私達に与える前に、すでに腐らせ出していた。……
 そういうほどにまで雨が小止《おや》みもなしに降りつづいたあげく、或る日、それにはげしい風さえ加わり出した。風は殆《ほとん》ど終日その雨を横なぐりに硝子戸に吹きつけて、ざわめいている戸外をよくも見させず、家のなかの私達まで怯《おび》やかしていたが、夕方、漸っとその長い雨は何処《どこ》かへ吹き払ってしまってくれた。そうしてからもまだ風だけは、そのまま闇《やみ》の中にしばらく残っていた。
 そんな夜ふけに、私はふと目を覚《さ》まして、自分の傍に父も母もいないことに気がつくと、寝間着のまま、みんなの話し声のしている縁側まで出ていった。そうして私はみんなの背後から、寝ぼけ眼《まなこ》をこすりながら、その縁側の下まで一ぱいに押し寄せてきている濁った水が、父の手にした蝋燭《ろうそく》の光で照らされながら揺らめいているのを、びっくりして覗《のぞ》いていた。その蝋燭の光の届かない、家のすぐ裏手を、誰だかじゃぶじゃぶ音をさせて水の中を歩いていた。ときどき、暗やみの中で、何やら叫んでいる者がいた。……
 そうやって皆と一しょになって、何が何だか分からずに、寧《むし》ろ面白そうにしている私に気がつくと、母は私を寝間に連れていって、「心配しないでおいで。この位の洪水《みず》はいつもの事なんだからね」そう繰り返し繰り返し云って私を宥《なだ》めながら、無理やりに私を寝かしつけた。……が、明け方になって再び私が目をさましたときは、家の中は只《ただ》ならず騒々しくなっていた。私はゆうべ夢の中でのように見たかずかずの事を思い出し、縁側に飛んでいって見た。ゆうべまざまざと見た濁った水は、いまその縁と殆どすれすれ位のところにまで押しよせて来ていた。
 父は弟子《でし》たちに手伝わせて、細工場の方に棚《たな》のようなものを作っていた。それはもう半ば出来かかっていた。母は縁側に出ている私を見ると、着物を手ばやく着換《きか》えさせ、「あぶないから、あんまり水のそばに行くんじゃないよ」と言ったきりで、すぐ又向うへ行って、忙しそうに皆を指図《さしず》していた。
 私はそこに一人ぼっちにされていた。そのあいだ、小さな私は、自分の前に起っている自然の異常な現象をまだよく判断する力もないの
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