寝床に移されかけているところなのであった。……
そんな或る晩、おばあさんの傍でいつのまにか愚図りながら寝込んでしまっていた私は、夜なかのいつもの時分になって、ふいと目を覚ました。いつもとは大へん異《ちが》って騒々しいような気がしたが、丁度みんなが帰りかけているところらしく、唯《ただ》、おかしい事には、見かけない姿の人が混ざっていたり、私の父や母までがその人達と一しょに出ていってしまったようだった。……それに、いつになく、そのあとにはおばあさんや細工場の者たちがうろうろ出たり入ったりして、私が目を覚ましたことなんぞには一向気がつかないらしかった。私はやっと一人で起き上がると、しぶしぶと目をこすりながら、奥の間にはいっていった。いつもならもうちゃんと蒲団がとってある筈《はず》だのに、そこには誰もいないばかりでなく、明るい洋燈の光を空《むな》しく浴びながら、何もかもが散らかり放題になっていた。私は寝呆《ねぼ》けたように、その真ん中に坐ると、急に怒ったように、そこいらに散らばっていた花札を一つずつ襖《ふすま》の方へ投げつけ出した。……
おばあさんはそんな私にやっと気がつくと、別に小言もいわず黙ってその花札を取り上げた。それからしばらくすると、私は半分睡ったまま、佐吉の背中におぶせられて、おばあさんと三人きりでおもてへ出た。それから私達は、おばあさんの手にした小さな提灯《ちょうちん》のあかりで、真っ暗な夜道を歩き出した。ところどころ風立った藪《やぶ》のそばなんぞを通り過ぎてゆくらしかった。私はときどき薄目をあけてはそういうものを見とがめ、一々それをおばあさんに訊《き》いたような気がする。すると、おばあさんはそれに二言三言返事をしてくれた。なにを言うたやらも私には分からなかったが、何か私の気を休めるのに一番好いことを言うてくれたと見え、私はすぐまた佐吉の肩にしがみついたまま、すやすやと寝入ってしまうのだった。……
あくる朝、私が目を覚ましたのは、あの小梅の、尼寺にちかい、おばさんの家だった。私は一日じゅう元気がなく、しょんぼりとしていた。そして父や母のことさえ、なぜか、なんにも訊かなかった。午後になってから、おばあさんが私を近所の三囲《みめぐり》さまへ連れ出しても、その石碑の多い境内や蓮池《はすいけ》のほとりで他の子供たちが面白そうに遊んでいるのを、私はぼんやりと見守っているきりだった。
夕方、私は佐吉が来たのを見ると、急にはしゃぎ出した。佐吉は何か二言三言おばさんやおばあさんに言っていた。すべてが片づき、佐吉は果して私を迎えに来てくれたのだった。そのときも私は甘えた気もちで、自分から佐吉におぶって貰《もら》って、家に帰った。家に着くと、父も、母も、ちっともふだんと変らない様子で、いかにも何事もなさそうに私を迎えた。私は何が何んだかよく分からないながら、子供特有の順応性で、そういうすべてのものをそのまま何んの躊躇《ちゅうちょ》もせずに受け入れた。そうして私は、そんな出来事のあったことさえ、若しもその結果として私のまわりに何んの変化も起さなかったならば数日のうちには忘れ去ったかもしれなかった。……
ただ小さな私にもすぐ気のついたのは、そんな事があってから私のところへぱったりと誰も来なくなった事だった。最初のうちは、まだ私が家に帰って来ていないと思って遊びに来ないのだろうと思っていた。が、二日立ち、三日立ちしても、誰も一向やって来そうにもなかったので、私はやっぱり自分の留守の間に何か変った事があったのだろう位に思い出した。しかし、はにかみやの私はそんな事を人に訊くのは何かばつが悪いような気がして何も訊かずにいた。が、或る日、私は父に連れ出されて、ひさしぶりで業平橋《なりひらばし》の方まで行き、そこの駅の中で、ぴかぴか光った汽車が何処《どこ》か遠くのほうに向って出発するのをひととき見送ってから、いかにも満足した気もちになって、家の方に帰ってきたとき、路地の奥にいた二三人の子供たちが私たち父子を見ると急いで物蔭にかくれるのを私は認めた。その中の一人は確かにお竜ちゃんにちがいなかった。――私はやっとそれですべてが分かったような気がしたが、父には何もいわないで、ただ急に気の抜けたように、それまで父の手をしっかりと握っていた自分の手を心もち弛《ゆる》めた。……
私はそれから当分の間誰れの顔を見るのもこちらから避けるようにしていた。お客などがあると、私は急いで庭の隅《すみ》へ逃げていって、そこで一人で遊んでいた。私はもうお竜ちゃんやたかちゃんの事なんぞはどうだって好いと思いながら、自分がそれまで彼女|等《ら》から受け取っていたすべてのものを、自分の大好きなあの無花果《いちじく》の木に――それだけがまだそっくり以前のまま私のまえに残されている
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