じこもったきりで、この頃やっと書き上げたばかりの原稿へ最後の手入れをし続けていた。(しかし、その間一番余計に私の考えていたのは、やっぱり彼女のことであった。)――が、私はその花屋を描いているところを遠くからなりと、一度見て置きたいと思って、或る朝、宿屋の裏の坂を上りながら水車の道まで出ていって見た。そうして私は、その道の向うの、大きな桜の木の下に立って、パレットを動かしている彼女と、それから彼女の横からその画布を覗《のぞ》き込《こ》みながら、一人のベレ帽《ぼう》をかぶった若い男が、何やら彼女に話しかけているのを認めた。私はそんな男が早く彼女のそばを立ち去ってくれればいいにと、すこしやきもきしながら、待っていた。――
「誰れ? いまの人……」やっとその男が立ち去ったのを見ると、私は急いで彼女の方へ近づいて行きながら、いかにも何気《なにげ》なさそうに訊《き》いた。
「画家《えかき》さんなんですって……何んだか、あんまり何時《いつ》までも見ていらっしゃるんで、私、厭《いや》になっちゃった……」
 彼女はわざとらしく顔をしかめて見せた。それからすこし恐《こわ》いような眼つきをして花畑の一部を見
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