後、雨のちょっとした晴れ間を見て、もうぽつぽつ外人たちの這入りだした別荘《べっそう》の並《なら》んでいる水車の道のほとりを私が散歩をしていたら、チェッコスロヴァキア公使館の別荘の中から誰かがピアノを稽古《けいこ》しているらしい音が聞えて来た。私はその隣《とな》りのまだ空いている別荘の庭へ這入りこんで、しばらくそれに耳を傾《かたむ》けていた。バッハのト短調の遁走曲《フウグ》らしかった。あの一つの旋律《メロディ》が繰《く》り返され繰り返されているうちに曲が少しずつ展開して行く、それがまた更に稽古をしているために三四回ずつひとところを繰り返されているので、一層それがたゆたいがちになっている。……それを聴《き》いているうちに、私はまるで魔《ま》にでも憑《つ》かれたような薄気味のわるい笑いを浮べ出していた。そのピアノの音のたゆたいがちな効果が、この頃《ころ》の私の小説を考え悩《なや》んでいる、そのうちにそれがどうやら少しずつ発展して来ているような気もする、そう言った私のもどかしい気持さながらであったからだ。

     ※[#アステリズム、1−12−94]

 或る朝、「また雨らしいな……」と溜
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