ま、彼女《かのじょ》のとうに死んでいる友人と話し合ってでもいると言ったような、空虚《うつろ》な眼《まな》ざしがまざまざと蘇ってくる……と思うと、一|瞬間《しゅんかん》それがきらきらと少女の眼ざしのようにかがやく……家の中からは夕餉《ゆうげ》の支度《したく》をしている、もう一方の婦人の立てる皿《さら》の音が聞えて来る……彼女はふと十字を切ろうとするように手を動かしかけるが、それはほんの下描《したが》きで終ってしまう……彼女にだけは一種の言語をもっていそうな気のする「巨人の椅子」……そんな一方の老嬢のさまざまな姿だけは、私が実際にそれらを見て、そして無意識の裡《うち》にそれらを記憶《きおく》していたのではないかと思えるくらい、まざまざと蘇って来るが、――もう一人の老嬢の方は、いつまでも皿の音ばかりさせていて、容易に私の物語の中には登場して来ようとはしない。私はどうしても彼女の俤《おもかげ》を蘇らすことが出来ないのである。……
 そんな或る午後、私のあてもなくさまよっていた眼ざしが、急に注意深くなって、私の丁度|足許《あしもと》にある夕日のあたっている赤い屋根の上にとまった。何か黒い小さなも
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