――それなら何んだか自分にもちょっと書けそうな気がした。この間その家の荒廃《こうはい》した庭のなかへ這入《はい》り込《こ》んで其処《そこ》から一時間ばかり眺《なが》めていた高原の美しい鳥瞰図《ちょうかんず》だの、一かどのニイチェアンだった学生の時分からうろおぼえに覚えていた zweisam という、いかにもその老嬢たちに似つかわしいドイツ語だのを、ひょっくりと思い浮べながら……。
或る夕方、私は再びそのヴィラまで枯葉《かれは》に埋《うず》まった山径《やまみち》を上って行った。庭の木戸は私がそうして置いたままに半ば開かれていた。私の捨てた煙草《たばこ》の吸殻《すいがら》がヴェランダの床《ゆか》に汚点《しみ》のように落ちていた。私は日の暮れるまで、其処から林だの、赤い屋根だの、丘だの、それから真正面に聳《そび》えている「巨人《きょじん》の椅子《いす》」だのを、一々暗記してしまうほど熱心に見つめていた。……ときどき、こんな夕暮れ時に、二人のうちの私のよく覚えている方の神々しいような白髪《はくはつ》の老婦人が、このヴェランダの、そう、丁度私の坐《すわ》っているこの場所に腰《こし》を下ろしたま
前へ
次へ
全100ページ中30ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
堀 辰雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング