庭園は、今は白い柵できちんと区限《くぎ》られていた。私はふと何故《なぜ》だか分らずにその滑《なめ》らかそうな柵をいじくろうとして手をさし伸《の》べたが、それにはちょっと触《ふ》れただけであった。そのとき私の帽子の上になんだか雨滴のようなものがぽたりと落ちて来たから。そこでその宙に浮いた手を私はそのまま帽子の上に持って行った。それは小さな桜《さくら》の実であった。私がひょいと頭を持ち上げた途端に、そこには、丁度私の頭上に枝《えだ》を大きく拡《ひろ》げながら、それがあんまり高いので却《かえ》って私に気づかれずにいた、それだけが私にとっては昔|馴染《なじみ》の桜の老樹が見上げられた。
 やがて向うの灌木の中から背の高い若い外国婦人が乳母車《うばぐるま》を押しながら私の方へ近づいて来るのを私は認めた。私はちっともその人に見覚えがないように思った。私がその道ばたの大きな桜の木に身を寄せて道をあけていると、乳母車の中から亜麻色《あまいろ》の毛髪をした女の児《こ》が私の顔を見てにっこりとした。私もつい釣《つ》り込まれて、にっこりとした。が、乳母車を押していたその若い母は私の方へは見向きもしないで、私
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