つめだした。熱心に絵を描こうとしているときの彼女が、こんな男のような、きびしい眼つきになるのを私はよく知っていたものだから、私はそれっきり黙《だま》っていた……。
そんな風に、私がちょっとでも彼女から離《はな》れている間に、私なしに、彼女がこの村で一人きりで知り出しているすべてのものが、私に漠《ばく》として不安を与《あた》えるのだった。或る日、彼女は、昔は其処《そこ》に水車場があったと私の教えた場所のほとりで、屡《しば》しば、背中から花籠《はなかご》を下ろして、松葉杖《まつばづえ》に靠《もた》れたまま汗《あせ》を拭《ふ》いている、跛《ちんば》の花売りを見かけることを私に話した。彼女の話すようなものをついぞ見かけたことのない私には、そんな跛の花売りのようなものと彼女が屡しば出会うことすら、自分でも可笑《おか》しいくらい、気になってならなかった。
※[#アステリズム、1−12−94]
或る朝、私は私の窓から彼女が絵具箱をぶらさげて、裏の坂を昇《のぼ》ってゆくのを見送った後、そのまんまぼんやり窓にもたれていると、しばらくしてからその同じ坂を、花籠を背負い、小さな帽子をかぶった男が、ぴょこんぴょこんと跳《は》ねるような恰好《かっこう》をして昇ってゆくのが認められた。よく見ると、その男は松葉杖をついているのだ。ああ、こいつだな、彼女がモデルにして描きたいと言っていた跛の花売りというのは! ……そういう後姿だけではよくわからなかったが、その男は、この村の花売り共が大概《たいがい》よぼよぼの老人ばかりなのに、まだうら若い男らしかった。それが一層片輪の故にそんな花売りなんかしていることを物哀《ものあわ》れに感じさせた。――そうして、その悲しげな跛の花売りを、私は自分自身の眼で見知るや否《いな》や、彼女がその姿を絵に描いてみたいと言っていただけでもって、その跛の花売りに私の抱《いだ》いていた、軽い嫉妬《しっと》のようなものは、跡方《あとかた》もなく消え去った。……
しかし、数日前水車の道で彼女に親しげに話しかけていたところを私の目撃《もくげき》した、あの画家だという、ベレ帽をかぶっていた青年は、その顔なんか明瞭《めいりょう》には覚えていなかったが、それだけ一層、その男の漠とした存在は、何かしら私を不安にさせずにはおかなかった。彼女はその画家のことはそれっきり何んにも私に話さなかったが、ひょっとしたら彼女はそれまでに何遍もその画家に出会っており、そして私の知らない間に互に親しくなりだしているのではないかと云うような懸念《けねん》さえ私は持ちはじめていた。そうして或る日のこと、そういう私の懸念を一そう増させずにはおかないような出会いを私たちはその画家としたのだった。――やっと彼女が花屋の絵を描き上げたので、次の絵を描く場所を捜《さが》すために、或る晴れた朝、私は彼女と一緒《いっしょ》に、すこし遠いけれど、サナトリウムの方へひさしぶりで出かけてみることにした。私たちが、小さな集りのあるらしい、少人数の西洋人の姿が窓ごしにちらちら見える、教会の前を通りぬけて、その裏の、いつも人気《ひとけ》のない橡《とち》の林の中へはいろうとした途端《とたん》、私たちの行く手の、その林のなかの小径《こみち》をば、一人《ひとり》の男が、帽子もかぶらずに、スケッチ・ブックらしいものを手にしながら、ぶらぶらしているのを私たちは認めた。「いつかの画家さんよ……又《また》、お会いしたわ」――彼女《かのじょ》にそう注意をされるまでは、私はその男が、この頃《ごろ》何の理由もなく私を苦しめ出している、そのベレ帽の画家と同じ男であることには気づかなかった位であった。それほど私はその画家については何んにも見覚えがなかったのだ。私は、私たちの方へぶらぶら歩いてくるその男からは、つとめて私の視線をはずしながら、急に早口にとりとめもないことを彼女に話し出した。私は彼女が私の話に気をとられてその男の方へはあんまり注意しないようにと仕掛《しか》けたのだ。しかし彼女は私の言うことには何んだか気がなさそうに応《こた》えるだけであった。そして彼女は、私がそばにいるのでひどく曖昧《あいまい》にされたような好意に充《み》ちた眼ざしで、その男の方を見つめていた。少くとも私にはそんな気がした。すると、その男の方でも、私の知らないこの前の出会いの際に、彼女と交換《こうかん》した親しげな視線の続きとでも言ったような意味ありげな視線を彼女の方へ投げかけながら、そして思い出し笑いのようなものをふいと浮べながら、軽く会釈《えしゃく》をして、私たちのそばを通り抜けて行った。
私はなんだか急に考えごとでもし出したかのように黙り込んだ。私たちはその橡《とち》の林を通り抜けて、いつか小さな美しい流れに沿い出し
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