美しい村
堀辰雄

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)御無沙汰《ごぶさた》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)夏|毎《ごと》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)[#「さんずい+景+頁」、第3水準1−87−32]
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[#ここから5字下げ、ページの左右中央]
天の※[#「さんずい+景+頁」、第3水準1−87−32]気《こうき》の薄明《うすあかり》に優《やさ》しく会釈《えしゃく》をしようとして、
命の脈が又《また》新しく活溌《かっぱつ》に打っている。
こら。下界。お前はゆうべも職を曠《むなしゅ》うしなかった。
そしてけさ疲《つかれ》が直って、己《おれ》の足の下で息をしている。
もう快楽を以《もっ》て己を取り巻きはじめる。
断《た》えず最高の存在へと志ざして、
力強い決心を働かせているなあ。

                  ファウスト第二部
[#ここで字下げ終わり]
[#改丁]

   序曲

[#地から2字上げ]六月十日 K…村にて
 御無沙汰《ごぶさた》をいたしました。今月の初めから僕《ぼく》は当地に滞在《たいざい》しております。前からよく僕は、こんな初夏に、一度、この高原の村に来てみたいものだと言っていましたが、やっと今度、その宿望がかなった訣《わけ》です。まだ誰《だれ》も来ていないので、淋《さび》しいことはそりあ淋しいけれど、毎日、気持のよい朝夕を送っています。
 しかし淋しいとは言っても、三年前でしたか、僕が病気をして十月ごろまでずっと一人で滞在していたことがありましたね、あの時のような山の中の秋ぐちの淋しさとはまるで違《ちが》うように思えます。あのときは籐《とう》のステッキにすがるようにして、宿屋の裏の山径《やまみち》などへ散歩に行くと、一日|毎《ごと》に、そこいらを埋《うず》めている落葉の量が増える一方で、それらの落葉の間からはときどき無気味な色をした茸《きのこ》がちらりと覗《のぞ》いていたり、或《あるい》はその上を赤腹[#「赤腹」に傍点](あのなんだか人を莫迦《ばか》にしたような小鳥です)なんぞがいかにも横着そうに飛びまわっているきりで、ほとんど人気《ひとけ》は無いのですが、それでいて何だかそこら中に、人々の立去った跡《あと》にいつまでも漂《ただよ》っている一種のにおいのようなもの、――ことにその年の夏が一きわ花やかで美しかっただけ、それだけその季節の過ぎてからの何とも言えぬ佗《わ》びしさのようなものが、いわば凋落《ちょうらく》の感じのようなものが、僕自身が病後だったせいか、一層ひしひしと感じられてならなかったのですが、(――もっとも西洋人はまだかなり残っていたようです。ごく稀《まれ》にそんな山径で行き逢《あ》いますと、なんだか病《や》み上がりの僕の方を胡散《うさん》くさそうに見て通り過ぎましたが、それは僕に人なつかしい思いをさせるよりも、かえってへんな佗びしさをつのらせました……)――そんな侘びしさがこの六月の高原にはまるで無いことが何よりも僕は好きです。どんな人気のない山径を歩いていても、一草一木ことごとく生き生きとして、もうすっかり夏の用意ができ、その季節の来るのを待っているばかりだと言った感じがみなぎっています。山鶯《やまうぐいす》だの、閑古鳥《かんこどり》だのの元気よく囀《さえず》ることといったら! すこし僕は考えごとがあるんだから黙《だま》っていてくれないかなあ、と癇癪《かんしゃく》を起したくなる位です。
 西洋人はもうぽつぽつと来ているようですが、まだ別荘などは大概《たいがい》閉《とざ》されています。その閉されているのをいいことにして、それにすこし山の上の方だと誰ひとりそこいらを通りすぎるものもないので、僕は気に入った恰好《かっこう》の別荘があるのを見つけると、構わずその庭園の中へはいって行って、そこのヴェランダに腰《こし》を下ろし、煙草《たばこ》などをふかしながら、ぼんやり二三時間考えごとをしたりします。たとえば、木の皮葺《かわぶ》きのバンガロオ、雑草の生《お》い茂《しげ》った庭、藤棚《ふじだな》(その花がいま丁度見事に咲《さ》いています)のあるヴェランダ、そこから一帯に見下ろせる樅《もみ》や落葉松《からまつ》の林、その林の向うに見えるアルプスの山々、そういったものを背景にして、一|篇《ぺん》の小説を構想したりなんかしているんです。なかなか好い気持です。ただ、すこしぼんやりしていると、まだ生れたての小さな蚋《ぶよ》が僕の足を襲《おそ》ったり、毛虫が僕の帽子《ぼうし》に落ちて来たりするので閉口です。しかし、そういうものも僕には自然の僕に対する敵
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