意のようなものとしては考えられません。むしろ自然が僕に対してうるさいほどの好意を持っているような気さえします。僕の足もとになど、よく小さな葉っぱが海苔巻《のりまき》のように巻かれたまま落ちていますが、そのなかには芋虫《いもむし》の幼虫が包まれているんだと思うと、ちょっとぞっとします。けれども、こんな海苔巻のようなものが夏になると、あの透明《とうめい》な翅《はね》をした蛾《が》になるのかと想像すると、なんだか可愛《かわい》らしい気もしないことはありません。
 どこへ行っても野薔薇《のばら》がまだ小さな硬《かた》い白い蕾《つぼみ》をつけています。それの咲くのが待ち遠しくてなりません。これがこれから咲き乱れて、いいにおいをさせて、それからそれが散るころ、やっと避暑客《ひしょきゃく》たちが入り込《こ》んでくることでしょう。こういう夏場だけ人の集まってくる高原の、その季節に先立って花をさかせ、そしてその美しい花を誰にも見られずに散って行ってしまうさまざまな花(たとえばこれから咲こうとする野薔薇もそうだし、どこへ行っても今を盛《さか》りに咲いている躑躅《つつじ》もそうですが)――そういう人馴《ひとな》れない、いかにも野生の花らしい花を、これから僕ひとりきりで思う存分に愛玩《あいがん》しようという気持は(何故《なぜ》なら村の人々はいま夏場の用意に忙《いそが》しくて、そんな花なぞを見てはいられませんから)何ともいえずに爽《さわ》やかで幸福です。どうぞ、都会にいたたまれないでこんな田舎暮《いなかぐ》らしをするようなことになっている僕を不幸だとばかりお考えなさらないで下さい。
 あなた方は何時頃《いつごろ》こちらへいらっしゃいますか? 僕はほとんど毎日のようにあなたの別荘の前を通ります。通りすがりにちょっとお庭へはいってあちらこちらを歩きまわることもあります。昔《むかし》はあんなに草深かったのに、すっかり見ちがえる位、綺麗《きれい》な芝生《しばふ》になってしまいましたね。それに白い柵《さく》などをおつくりになったりして。……何んだかあなたの別荘のお庭へはいっても、まるで他《ほか》の別荘の庭へはいっているような気がします。人に見つけられはしないかと、心臓がどきどきして来てなりません。どうしてこんな風にお変えになってしまったのか、本当におうらめしく思います。ただ、あなたと其処《そこ》でよくお話したことのあるヴェランダだけは、そっくり昔のままですけれど……
 ああ、また、僕はなんだか悲しそうな様子をしてしまった。しかし、僕は本当はそんなに悲しくはないんですよ。だって僕は、あなた方さえ知らないような生の愉悦《ゆえつ》を、こんな山の中で人知れず味《あじわ》っているんですもの。でも一体、何時ごろあなた方はこちらへいらっしゃるのかしら? あなた方とはじめて知り合いになったこの土地で、あなた方ともう見知らない人同志のように顔を合せたりするのは、大へんつらいから、僕はあなた方のいらっしゃる前に、この村を出発しようかと思います。どうぞその日の来るまで僕にも此処《ここ》にいることを、そしてときどき誰も見ていないとき、あなたの別荘のお庭をぶらつくことをお許し下さい。
 またしても、何と悲しそうな様子をするんだ! もう、止《よ》します。しかし、もうすこし書かせて下さい。でも、何を書いたものかしら? 僕のいま起居しているのはこの宿屋の奥《おく》の離《はな》れです。御存知《ごぞんじ》でしょう? あそこを一人で占領《せんりょう》しています。縁側《えんがわ》から見上げると、丁度、母屋《おもや》の藤棚が真向うに見えます。さっきもいったように、その花がいま咲き切っているんです。が、もう盛りもすぎたと見え、今日あたりは、風もないのにぽたぽたと散りこぼれています。その花に群がる蜜蜂《みつばち》といったら大したものです。ぶんぶんぶんぶん唸《うな》っています。この手紙を書きながら、ちょっと筆を休めて、何を書こうかなと思って、その藤の花を見上げながらぼんやりしていると、なんだか自分の頭の中の混乱と、その蜜蜂のうなりとが、ごっちゃになって、そのぶんぶんいっているのが自分の頭の中ではないかしら、とそんな気がしてくる位です。僕の机の上には、マダム・ド・ラファイエットの「クレエヴ公爵《こうしゃく》夫人」が読みかけのまんま頁《ページ》をひらいています。はじめてこのフランスの古い小説をしみじみ読んでいますが、そのお蔭《かげ》でだいぶ僕も今日このごろの自分の妙《みょう》に切迫《せっぱく》した気持から救われているような気がしています。この小説についてはあなたに一番その読後感をお書きしたいし、また黙ってもいたい。二三年前、あなたに無理矢理にお読ませした、ラジイゲの「舞踏会《ぶとうかい》」は、この小説をお手本にし
前へ 次へ
全25ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
堀 辰雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング