たと言われている位ですから、まあ、あれに大へん似ています。しかし「舞踏会」のときは、まだあんなにこだわらずに、その本をお貸しが出来たけれど、そしてそれをお読みになってもあなたは何もおっしゃらなかったし、僕もそれについては何もお訊《き》きしなかったが、それでも或《あ》る気持はお互《たが》いに通じ合っていたようでしたけれど、いま僕は、あの時のようにこだわらずに、この小説の読後感をあなたにお書きできるかしら?
 第一、この手紙にしたって、筆をとりながら、果してあなたに出せるものやら、出せそうもないものやら、心の中では躊躇《ためら》っているのです。恐《おそ》らく出さずにしまうかも知れません。……こんなことを考え出したら、もうこの手紙を書き続ける気がしなくなりました。もう筆を置きます。出すか出さないか分りませんけれど、ともかくも左様《さよう》なら。
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   美しい村

     或は 小|遁走曲《フウグ》

 或る小高い丘《おか》の頂きにあるお天狗《てんぐ》様のところまで登ってみようと思って、私は、去年の落葉ですっかり地肌《じはだ》の見えないほど埋まっているやや急な山径《やまみち》をガサガサと音させながら上って行ったが、だんだんその落葉の量が増して行って、私の靴《くつ》がその中に気味悪いくらい深く入るようになり、腐《くさ》った葉の湿《しめ》り気《け》がその靴のなかまで滲《し》み込んで来そうに思えたので、私はよっぽどそのまま引っ返そうかと思った時分になって、雑木林《ぞうきばやし》の中からその見棄《みす》てられた家が不意に私の目の前に立ち現れたのであった。そうしてその窓がすっかり釘《くぎ》づけになっていて、その庭なんぞもすっかり荒《あ》れ果て、いまにも壊《こわ》れそうな木戸が半ば開かれたままになっているのを認めると、私は子供らしい好奇心《こうきしん》で一ぱいになりながらその庭の中へずかずかと這入《はい》って行った。
 そうして一めんに生い茂った雑草を踏《ふ》み分けて行くうちに、この家のこうした光景は、数年前、最後にこれを見た時とそれが少しも変っていないような気がした。が、それが私の奇妙な錯覚《さっかく》であることを、やがて私のうちに蘇《よみがえ》って来たその頃の記憶《きおく》が明瞭《めいりょう》にさせた。今はこんなにも雑草が生い茂って殆《ほと》んど周囲の雑木林と区別がつかない位にまでなってしまっているこの庭も、その頃は、もっと庭らしく小綺麗になっていたことを、漸《ようや》く私は思い出したのである。そうしてつい今しがたの私の奇妙な錯覚は、その時から既《すで》に経過してしまった数年の間、若《も》しそれがそのままに打棄《うっちゃ》られてあったならば、恐らくはこんな具合《ぐあい》にもなっているであろうに……という私の感じの方が、その当時の記憶が私に蘇るよりも先きに、私に到着したからにちがいなかった。しかし、私のそういう性急《せっかち》な印象が必ずしも贋《にせ》ではなかったことを、まるでそれ自身裏書きでもするかのように、私のまわりには、この庭を一面に掩《おお》うて草木が生い茂るがままに生い茂っているのであった。
 そこのヴェランダにはじめて立った私は、錯雑した樅《もみ》の枝を透して、すぐ自分の眼下に、高原全帯が大きな円を描《えが》きながら、そしてここかしこに赤い屋根だの草屋根だのを散らばらせながら、横《よこた》わっているのを見下ろすことが出来た。そうしてその高原の尽《つ》きるあたりから、又《また》、他のいくつもの丘が私に直面しながら緩《ゆる》やかに起伏《きふく》していた。それらの丘のさらに向うには、遠くの中央アルプスらしい山脈が青空に幽《かす》かに爪《つめ》でつけたような線を引いていた。そしてそれが私のきざきざな地平線をなしているのだった。
 夏|毎《ごと》にこの高原に来ていた数年前のこと、これと殆どそっくりな眺望《ちょうぼう》を楽しむために、私は屡《しばしば》、ここからもう少し上方にあるお天狗様まで登りに来たのだけれど、その度《たび》毎に、この最後の家の前を通り過ぎながら、そこに毎夏のようにいつも同じ二人の老嬢《ろうじょう》が住まっているのを何んとなく気づかわしげに見やっては、その二人暮らしに私はひそかに心をそそられたものだった。――だが、あれはひょっとすると私自身の悲しみを通してばかり見ていたせいかも知れないぞ?(と私は考えるのだった。)何故って、私がこの丘へ登りに来た時は、いつも私に何か悲しいことがあって、それを肉体の疲労《ひろう》と取り換《か》えたいためだったからな。真白《まっしろ》な名札《なふだ》が立って、それには MISS のついた苗字《みょうじ》が二つ書いてあったっけ。……そう、その一方が確か MISS SEYMORE 
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