という名前だったのを私は今でも覚えている。が、もう一方のは忘れた。そうしてその老嬢たちそのものも、その一方だけは、あの銀色の毛髪《もうはつ》をして、何となく子供子供した顔をしていた方だけは、今でも私の眼にはっきりと浮《うか》んでくるけれど、もう一方のはどうしても思い出せない。昔から自分の気に入った型《タイプ》の人物にしか関心しようとしない自分の習癖《しゅうへき》が、(この頃ではどうもそれが自分の作家としての大きな才能の欠陥《けっかん》のように思われてならないのだけれど、)この老嬢たちにも知《し》らず識《し》らずの裡《うち》に働いていたものと見える。
 ……この数年間というもの、この高原、この私の少年時の幸福な思い出と言えばその殆んど全部が此処《ここ》に結びつけられているような高原から、私を引き離していた私の孤独《こどく》な病院生活、その間に起ったさまざまな出来事、忘れがたい人々との心にもない別離《べつり》、その間の私の完全な無為《むい》。……そして、その長い間|放擲《ほうてき》していた私の仕事を再び取り上げるために、一人きりにはなりたいし、そうかと言ってあんまり知らない田舎《いなか》へなぞ行ったら淋しくてしようがあるまいからと言った、例の私の不決断な性分《しょうぶん》から、この土地ならそのすべてのものが私にさまざまな思い出を語ってくれるだろうし、そして今時分ならまだ誰にも知った人には会わないだろうしと思って、こんな季節はずれの六月の月を選んで、この高原へわざわざ私はやって来たのであった。が、数日前にこの土地へ到着してから私の見聞きする、あたかも私のそういう長い不在を具象《ぐしょう》するような、この高原に於《お》けるさまざまな思いがけない変化、それにつけても今更《いまさら》のように蘇って来る、この土地ではじめて知り合いになった或る女友達との最近の悲しい別離。……
 そんな物思いに耽《ふけ》りながら、私はぼんやり煙草《たばこ》を吹かしたまま、ほとんど私の真正面の丘の上に聳《そび》えている、西洋人が「巨人《きょじん》の椅子《いす》」という綽名《あだな》をつけているところの大きな岩、それだけがあらゆる風化作用から逃《のが》れて昔からそっくりそのままに残っているかに見える、どっしりと落着いた岩を、いつまでも見まもっていた。
 私はやがて再び枯葉《かれは》をガサガサと音させながら、山径を村の方へと下りて行った。その山径に沿うて、落葉松《からまつ》などの間にちらほらと見える幾《いく》つかのバンガロオも大概はまだ同じような紅殻板《べにがらいた》を釘づけにされたままだった。ときおり人夫等がその庭の中で草むしりをしていた。彼等《かれら》の中には熊手《くまで》を動かしていた手を休めて私の方を胡散臭《うさんくさ》そうに見送る者もあった。私はそういう気づまりな視線から逃れるために何度も道もないようなところへ踏《ふ》み込んだ。しかしそれは昔私の大好きだった水車場のほとりを目ざして進んでいた私の方向をどうにかこうにか誤らせないでいた。しかし其処《そこ》まで出ることは出られたが、数年前まで其処にごとごとと音立てながら廻《まわ》っていた古い水車はもう跡方《あとかた》もなくなっていた。それよりももっと悲しい気持になって私の見出《みいだ》したのは、その水車場近くの落葉松を背にした一つのヴィラだった。私の屡しば訪《おとず》れたところのそのヴィラは、数年前に最後に私の見た時とはすっかり打って変っていた。以前はただ小さな灌木《かんぼく》の茂みで無雑作《むぞうさ》に縁《ふち》どられていたその庭園は、今は白い柵できちんと区限《くぎ》られていた。私はふと何故《なぜ》だか分らずにその滑《なめ》らかそうな柵をいじくろうとして手をさし伸《の》べたが、それにはちょっと触《ふ》れただけであった。そのとき私の帽子の上になんだか雨滴のようなものがぽたりと落ちて来たから。そこでその宙に浮いた手を私はそのまま帽子の上に持って行った。それは小さな桜《さくら》の実であった。私がひょいと頭を持ち上げた途端に、そこには、丁度私の頭上に枝《えだ》を大きく拡《ひろ》げながら、それがあんまり高いので却《かえ》って私に気づかれずにいた、それだけが私にとっては昔|馴染《なじみ》の桜の老樹が見上げられた。
 やがて向うの灌木の中から背の高い若い外国婦人が乳母車《うばぐるま》を押しながら私の方へ近づいて来るのを私は認めた。私はちっともその人に見覚えがないように思った。私がその道ばたの大きな桜の木に身を寄せて道をあけていると、乳母車の中から亜麻色《あまいろ》の毛髪をした女の児《こ》が私の顔を見てにっこりとした。私もつい釣《つ》り込まれて、にっこりとした。が、乳母車を押していたその若い母は私の方へは見向きもしないで、私
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