。そしてその一方の花畑などは、水車の道を越《こ》して、更《さ》らにその道の向うまで氾濫《はんらん》していた。……つい先頃までは、あんなに何処《どこ》もかしこも花だらけであったこの村では、この二軒の花屋は、ほとんどその存在さえ人々から忘れられていた位であったが、やがてその季節が過ぎ、それらの野生の花がすっかり散って、それと入れ代りに今度は、これらの畑で人工的に育て上げられた、さまざまな珍らしい花が、一どにどっと咲《さ》き出したものだから、その横町を通り抜ける者は誰《だれ》しもその美しい花畑に眸《ひとみ》をみはらないものは無いくらいであった。だが、その二軒並んだ花屋の前を通りすがりに、注意をしてそれらの店の奥《おく》に坐《すわ》っている花屋の主人たちに目を止めた者は、一層の愕《おどろ》きのためにその眸をもっと大きくせずにはいられなかったであろう。と言うのは、その一方の店の奥にきょとんと坐っている白い碁盤縞《ごばんじま》のシャツを着た小柄《こがら》な老人を認めたのち、次の花屋の前にさしかかると、何んとその奥にも、つい今しがたもう一方の奥に見かけたばかりのと寸分も異《ちが》わない、小柄な老人が、やはり同じような白い碁盤縞のシャツを着て、きょとんと腰《こし》をかけ、往来の方を眺めているのに気づくだろうからだ。ただ異うのは、そんな二人のそばに坐っているのが、一方はいつも髪《かみ》の毛をくしゃくしゃにさせた、肥《ふと》っちょの女房《にょうぼう》であったし、もう一方はそれと好対照をしている位に痩《や》せっぽちの、すこし藪睨《やぶにら》みらしい女房であることだ。つまり、その二軒の花屋の老いたる主人たちは、ほとんど瓜《うり》二つと云《い》っていいほどの、兄弟なのであった。その上、可笑《おか》しいことには、この花屋の兄弟はとても仲が悪くて、夏場だけはお互《たがい》に仲好《なかよ》さそうに口を利《き》き合いながら商売をしているが、さて夏場が過ぎてしまうと、すぐに性懲《しょうこ》りもなく喧嘩《けんか》をし始め、冬の間などは、お互に一言も口を利かずに過ごすようなことさえあると言うことだった。――そんな風変りな二軒の花屋のある横町には、道ばたに数本の小さな樅《もみ》と楓《かえで》とが植えられてあったが、その一番手前の小さな楓の木に、ついこの間のこと、「売物モミ二本、カエデ三本」という真新しい木札《きふだ》がぶらさげられた。そしていまや、その横町の両側の花畑には、向日葵《ひまわり》だの、ダリヤだの、その他さまざまの珍らしい花が真っさかりであった。……
 私はそんな二軒の花屋の物語を彼女に聞かせながら、その私の大好きな横町へ、彼女の注意を向けさせた。
 水車の道の上へ大きな枝を拡《ひろ》げている、一本の古い桜《さくら》の木の根元から、その道から一段低くなっている花畑の向うに、店の名前を羅馬字《ロオマじ》で真白にくり抜いた、空色の看板が、さまざまな紅だの黄だのの花とすれすれの高さに、しかしそれだけくっきりと浮《う》いて見えている。――そんな角度から見た一|軒《けん》の花屋の屋根とその花畑を、彼女は或る日から五十号のカンバスに描《えが》き出した……。
 しかしその水車の道はそのへんの別荘の人たちが割合に往《ゆ》き来するので、彼女のまわりにはすぐ人だかりがして困るらしかったが、私は一|遍《ぺん》もその絵を描いている場所へ近づこうとはしないでいた。そんな人目につき易《やす》い場所で私が彼女と親しそうにしているのを、私の顔見知りの人々に見られたくなかったからだ。で、私は自分の部屋に閉《と》じこもったきりで、この頃やっと書き上げたばかりの原稿へ最後の手入れをし続けていた。(しかし、その間一番余計に私の考えていたのは、やっぱり彼女のことであった。)――が、私はその花屋を描いているところを遠くからなりと、一度見て置きたいと思って、或る朝、宿屋の裏の坂を上りながら水車の道まで出ていって見た。そうして私は、その道の向うの、大きな桜の木の下に立って、パレットを動かしている彼女と、それから彼女の横からその画布を覗《のぞ》き込《こ》みながら、一人のベレ帽《ぼう》をかぶった若い男が、何やら彼女に話しかけているのを認めた。私はそんな男が早く彼女のそばを立ち去ってくれればいいにと、すこしやきもきしながら、待っていた。――
「誰れ? いまの人……」やっとその男が立ち去ったのを見ると、私は急いで彼女の方へ近づいて行きながら、いかにも何気《なにげ》なさそうに訊《き》いた。
「画家《えかき》さんなんですって……何んだか、あんまり何時《いつ》までも見ていらっしゃるんで、私、厭《いや》になっちゃった……」
 彼女はわざとらしく顔をしかめて見せた。それからすこし恐《こわ》いような眼つきをして花畑の一部を見
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