ていた。しかし私はいま自分の感じていることが何処《どこ》まで真実であるのか、そんなことはみんな根も葉もないことなんじゃないかと疑ったりしながら、気むずかしそうに沈黙《ちんもく》したまま、自分の足許《あしもと》ばかり見て歩いていた。そうして私は、そんな自分の疑いに対するはっきりした答えを恐《おそ》れるかのように、いつまでも彼女の方を見ようとはしないでいた。が、とうとう私は我慢《がまん》し切れなくなってそんな沈黙の中からそっと彼女の横顔を見上げた。そして私は思ったよりももっと彼女がその沈黙に苦しんでいるらしいのを見抜いた。そういう彼女の打ち萎《しお》れたような様子は私にはたまらないほどいじらしく見えた。突然《とつぜん》、後悔《こうかい》のようなもので私の胸は一ぱいになった。……私がほとんど夢中《むちゅう》で彼女の腕《うで》をつかまえたのは、そんなこんがらがった気持の中でだった。彼女はちょっと私に抵抗《ていこう》しかけたが、とうとうその腕を私の腕のなかに切なそうに任せた。……それから数分|経《た》ってから初めて、私はやっと自分の腕の中に彼女がいることに気がついたように、何んともかんとも言えない歓《よろこ》ばしさを感じ出した。
 私たちは、少しぎごちなさそうに腕を組んだまま、例の小さな木橋を渡った。それからその流れの反対の側に沿って、サナトリウムへの道に這入《はい》って行った。その途中にずっと続いている野薔薇《のばら》の生墻《いけがき》は、既《すで》にその白い小さな花をことごとく失った跡だった。そんな葉ばかりになってしまっている野薔薇の茂みは、それらが花を一ぱいつけていた頃のことを、殆んど強制的に私に思い出させはしたけれど、私はそれがどんなになっていようとも、もうそれには少しも感動できなくなっていた。それほどあの頃からすべてが変っていた。そしてそれが何もかも自分の責任のような気がされて、私はふっと気が鬱《ふさ》いだ。……が、それらの生墻の間からサナトリウムの赤い建物が見えだすと、私は気を取り直して、黄いろいフランス菊《ぎく》がいまを盛《さか》りに咲きみだれている中庭のずっと向うにある、その日光室《サン・ルウム》を彼女に指して見せた。丁度、その日光室の中には快癒期《かいゆき》の患者《かんじゃ》らしい外国人が一人、籐椅子《とういす》に靠《もた》れていたが、それがひょいと上半身を起して、私たちの方をもの憂《う》げな眼《まな》ざしで眺め出した。――それから私たちは、なおもその流れに沿って、そこいらへんから次第にアカシアの木立に縁《ふち》どられだす川沿いの道を、何処までも真直に進んで行った。それらのアカシアの花ざかりだった頃は、その道はあんなにも足触《あしざわ》りが軟《やわら》かで、新鮮《しんせん》な感じがしていたのに、今はもう、あちこちに凸凹《でこぼこ》ができ、汚《きたな》らしくなり、何んだかいやな臭《にお》いさえしていた。その上、それらのアカシアの木立は、まだみんな小さいので、はげしい日光から私たちを充分《じゅうぶん》に庇《かば》うことが出来ないので、その川沿いの道はそれまでの道よりも一層暑いように思えた。私たちは途中からそれらのアカシアの間をくぐり抜けて、丁度サナトリウムの裏手にあたる、一面に葦《よし》の這っている、いくぶん荒涼《こうりょう》とした感じのする大きな空地へ出た。其処《そこ》からは、村の峠《とうげ》が、そのまわりの数箇《すうこ》の小山に囲繞《いにょう》されながら、私たちの殆んど真向うに聳《そび》えていた。――梅雨期《ばいうき》には、その頃の私自身の心の状態のせいだったかも知れないが、その奥には何かしら神秘的なものがあるように思えてならなかった。その峠も、いまは何物をも燃やさずにはおかないような夏の光線を全身に浴びながら、何んだか炎《ほのお》のようにゆらめいているような感じで、私たちに迫《せま》っていた。……
 彼女は、その燃ゆるような山なみを、サナトリウムの赤い屋根を前景に配置しながら、描いてみたいと言った。そしてそれを適当な角度から描くために、そんなはげしい光線の直射するのにも無頓著《むとんじゃく》のように、その空地のやや小高いところを選ぶと、三脚台《さんきゃくだい》を据《す》えて、その上へ腰かけ、斜《なな》めにかぶった運動帽の下からときどきまぶしそうな顔を持ち上げながら、その下図をとりだした。……私は彼女の仕事の邪魔《じゃま》にならないように、いつものように彼女を其処に一人きり残しながら、再びさっきの土手に出て、やや大きなアカシアの木蔭《こかげ》を選んで、そこに腰を下ろしていた。そうして私の前の小さな流れの縁を一羽の鶺鴒《せきれい》が寂《さび》しそうにあっちこっち飛び歩いているのにぼんやり見入っていると、突然、私の背後のサ
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