が村中の者からずっと憎《にく》まれ通しであると言うことだった。或《あ》る年の冬、その老医師の自宅が留守中に火事を起したことや、しかし村の者は誰《だれ》一人それを消し止めようとはしなかったことや、そのために老医師が二十数年もかかって研究して書いていた論文がすっかり灰燼《かいじん》に帰したことなどを話した、爺やの話の様子では、どうも村の者が放火したらしくも見える。(何故《なぜ》そんなにその老医師が村の者から憎まれるようになったかは爺やの話だけではよく分からなかったけれど、私もまたそれを執拗《しつよう》に尋《たず》ねようとはしなかった。)――それ以来、老医師はその妻子だけを瑞西《スイス》に帰してしまい、そうして今だにどういう気なのか頑固《がんこ》に一人きりで看護婦を相手に暮しているのだった。……私はそんな話をしている爺やの無表情な顔のなかに、嘗《か》つて彼自身もその老外人に一種の敵意をもっていたらしいことが、一つの傷のように残っているのを私は認めた。それは村の者の愚《おろ》かしさの印《しる》しであろうか、それともその老外人の頑《かたくな》な気質のためであろうか? ……そう言うような話を聞きながら、私は、自分があんなにも愛した彼の病院の裏側の野薔薇《のばら》の生墻《いけがき》のことを何か切ないような気持になって思い出していた。
 私はヴェランダの床板《ゆかいた》に腰かけたきり、爺やがまた何処《どこ》からか羊歯を運んで来るまで、さまざまな物思いにふけりながら待っていた。それからまた爺やの羊歯を植えつけるのをしばらく見守っていた。しかし今度は黙ったままで。そうして私は老人の動かしている無気味に骨ばった手の甲《こう》を目で追っているうちに、ふいと「巨人《きょじん》の椅子《いす》」のことを思い浮《うか》べた。――私は爺やが羊歯をすっかり植えおえるのを待とうとしないで爺やと別れた。
 それから数分後に、私はその巨《おお》きな岩を目《ま》のあたりに見ることのできる、例の見棄《みす》てられたヴィラの庭のなかに自分自身を見出《みいだ》した。そのヴィラに昔《むかし》住んでいた二人の老嬢《ろうじょう》のことについては爺やも私に何んにも知らせてくれなかった。「ああ、セエモオルさんですか」と言ったきりだった。何か知っていそうだったがもう忘れてしまったらしかった。そうしてただ不機嫌そうに黙っていた。「そうすると、それを知っているのはお前だけだがなあ……」と私は、いま私の下方に横《よこた》わっている高原一帯を隔《へだ》てて、私と向い合っている、遥《はる》か彼方《かなた》の「巨人の椅子」を、あたかもそのあたりに見えない巨人の姿を探してでもいるかのような眼つきで、まじまじと見まもっていた。
 だんだんに日が暮《く》れだした。私のすぐ足許《あしもと》の、いつかその赤い屋根に交尾《こうび》している小鳥たちを見出したヴィラは、もう人が住まっているらしく、窓がすっかり開け放たれて、橙色《だいだいいろ》のカアテンの揺《ゆ》らいでいるのが見えた。ときおり御用聞きがその家のところまで自転車を重そうに押《お》し上げてくるらしい音が私のところまで聞えて来た。もうそろそろ私もこれまでのようにこの空家の庭でぼんやりしていられそうもないなと思った。そんな気がしだすと、何んだかもうこれがその最後の時ででもあるかのように、私は、私のすべての注意を、半分はこの荒廃《こうはい》したヴィラそのものに、半分はこの高みから見下ろせる一帯の美しい村、その森、その花|咲《さ》ける野、その別荘《べっそう》、それからもう霞《かす》みながらよく見えなくなり出した丘々《おかおか》の襞《ひだ》、それだけがまだ黒々と残っている「巨人の椅子」などに傾《かたむ》け出していた。それにも拘《かか》わらず、私はときどきややもするとそれ等《ら》のものことごとくを見失い、そしてまるっきり放心状態になっている自分自身に気がついて、思わずどきっとするのだった。
 突然《とつぜん》、ちょうど私の頭上にある、その周囲だけもうすっかり薄暗《うすぐら》くなっている大きな樅《もみ》の、ほとんど水平に伸《の》びた枝《えだ》の一つに、ばたばたとびっくりするような羽音をさせながら、一羽の山鳩《やまばと》が飛んできて止まった。そうしてそんなところに私のいることに向うでも愕《おどろ》いたように、再びすぐその枝から、薄暗いために一層大きく見えながら、それは飛び去って行った。あたかも私自身の思惟《イデエ》そのものであるかのごとく重々しく羽搏《はばた》きながら、そしてその翼《つばさ》を無気味に青く光らせながら……。
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   夏

 突然、私の窓の面している中庭の、とっくにもう花を失っている躑躅《つつじ》の茂《しげ》みの向うの、別館《べっかん》の窓
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