ぎわに、一輪の向日葵《ひまわり》が咲きでもしたかのように、何んだか思いがけないようなものが、まぶしいほど、日にきらきらとかがやき出したように思えた。私はやっと其処《そこ》に、黄いろい麦藁帽子《むぎわらぼうし》をかぶった、背の高い、痩《や》せぎすな、一人の少女が立っているのだということを認めることが出来た。……誰かを待っているらしいその少女は、さっきから中庭のあちらこちらに注意深そうな視線をさまよわせていたが、最後にその視線を、離れの窓から彼女の方をぼんやり見つめていた私の上に置いた。そんな最初の出会《であい》の時には、大概《たいがい》の少女たちは、自分が見つめられていると思う者からわざとそっぽを向いて、自分の方ではその者にまったく無関心であることを示したがるものだが、そんな羞恥《しゅうち》と高慢さとの入り混った視線とは異って、私の上に置かれているその少女の率直《そっちょく》な、好奇心《こうきしん》でいっぱいなような視線は、私にはまぶしくってそれから目をそらさずにはいられないほどに感じられたので、私はそのときの彼女――最初に私の目の前に現れたときの彼女に就《つ》いては、そのやや真深かにかぶった黄いろい帽子と、その鍔《つば》のかげにきらきらと光っていた特徴《とくちょう》のある眼《まな》ざしとよりほかには、殆《ほと》んど何も見覚えのない位であった。……やがて別館から彼女の父らしいものが姿を現した。そしてその二人づれは私の窓の前を斜《なな》めに横切って行ったが、見ると、彼女はその父よりも背が高いくらいであった。そしてその父らしいものが彼女にしきりに話しかけるのに、彼女はいかにも気がなさそうに返事をしながら、いつまでも私の方へ躑躅《つつじ》の茂みごしにその特徴のある眼ざしをそそぎつづけていた。……その二人が中庭を立ち去ってしまった跡《あと》も、私はしばらく、今しがたまでその少女が向日葵《ひまわり》のように立っていた窓ぎわの方へ、すこし空虚《うつろ》になった眼ざしをやっていたが、ふと気づくと、そこいらへんの感じが、それまでとは何んだかすっかり変ってしまっているのだ。私の知らぬ間に、そこいら一面には、夏らしい匂《にお》いが漂《ただよ》い出しているのだった。……
 その日の夕方の、別館の方への私の引越《ひっこ》し、(今まで私の一人《ひとり》で暮らしていた、古い離《はな》れが修繕《しゅうぜん》され始めるので――)その次ぎの日の、その少女の父の出発、それから他《ほか》にはまだ一人も滞在客《たいざいきゃく》のないそんな別館での、その少女と二人っきりの、背中合わせの暮らし……。
 しかし私は毎日のように、ほとんど部屋に閉じこもったきりで、自分の仕事に没頭《ぼっとう》していた。その私の書きつつある「美しい村」という物語は、六月頃からこの村に滞在している私が、そんなまだ季節はずれの、すっからかんとした高原で出会ったことを、それからそれへと書いて行ったものだった。そうして私は丁度いま、私がそれまで昔の恋人《こいびと》に対する一種の顧慮《こりょ》から、その物語の裏側から、そして唯《ただ》、それによってその淡々《たんたん》とした物語に或る物悲しい陰影《ニュアンス》を与《あた》えるばかりで満足しようとしていた、この村での数年前の彼女たちとの花やかな交際の思い出、ことにこの村での彼女たちとの最初の歓《よろこ》ばしい出会いを、とある日、道ばたに咲き揃《そろ》っている野薔薇《のばら》の花がまざまざと私のうちに蘇《よみがえ》らせ、それが遂《つい》に思いがけぬ出口を見つけた地下水のように、その物語の静かな表面に滾々《こんこん》と湧《わ》きあがってくるところを書き終えたばかりのところだった。そうしてそういう昔のさまざまな歓ばしい出会いの追憶《ついおく》に耽《ふけ》っている暇《ひま》もなく、すでに私から巣立っていったそれらの少女たち、ことにそのうちの一人との気まずい再会を恐れて、季節に先立ってこの村を立ち去ろうとする、そんな私の悲しい決心を、その物語の結尾として、私はこれから書こうとしているところだった。
 私の新しい部屋は、別館の二階の奥《おく》まったところで、南向きの窓があり、そしてその窓からは数本の大きな桜の幹ごしに向うの小高い水車の道に面しているいくつかのヴィラの裏側がちらちらと見えていた。そしてその窓のすぐ下を、私がそれらの少女たちと初めて出会ったところの、例の抜け道が、小さな坂になりながら、灌木《かんぼく》のなかに細々と通っているのだった。……私は私のやりかけている仕事から気持をそらすまいとして、私とたった二人きりでその別館の中に暮らしだしているその未知の少女とは、わざと背中を向き合わせてばかりいた。その癖《くせ》、私は私の窓のすぐ下を通っているその坂道を、毎朝、
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