通れるか通れない位の、狭《せま》い、小さな坂道を上って行こうとした途中《とちゅう》で、私はその坂の上の方から数人の少女たちが笑いさざめきながら駈《か》け下りるようにして来るのに出遇《であ》った。私はそれを認めると、そういう少女たちとの出会《であい》は私の始終|夢《ゆめ》みていたものであったにも拘《かかわ》らず、私はよっぽど途中から引っ返してしまおうかと思った。私は躊躇《ちゅうちょ》していた。そういう私を見ると、少女たちは一層笑い声を高くしながら私の方へずんずん駈け下りて来た。そんなところで引っ返したりすると余計自分が彼女たちに滑稽《こっけい》に見えはしまいかと私は考え出していた。そこで私は思い切って、がむしゃらにその坂を上って行った。するとこんどは少女たちの方で急に黙《だま》ってしまった。そうしてやっと笑うのを我慢《がまん》しているとでも言ったような意地悪そうな眼つきをして、道ばたの丁度彼女たちのせいぐらいある灌木の茂みの間に一人一人半身を入れながら、私の通り過ぎるのを待っていた。私は彼女たちの前を出来るだけ早く通ろうとして、そのため反《かえ》って長い時間かかって、心臓をどきどきさせながら通り過ぎて行った。……その瞬間私は、自分のまわりにさっきから再び漂いだしている異常な香りに気がついて愕いた。私がそんな風に私の視線を自分自身の内側に向け出して、ひょいと野薔薇《のばら》のことを忘れていたら、そういう気まぐれな私を責め訴えるかのように、その花々が私にさっきの香りを返してくれたのだった。そう、それ等の少女たちの形づくった生墻《いけがき》はちょうどお前たちにそっくりだったのだ! ……
 私はその朝はどうしたのかクレゾオルの匂のぷんぷんするサナトリウムの手前から引返した。その向うには、その思いがけない美しさでひととき私の心を奪《うば》っていたアカシアの花が、一週間近い雨のためにすっかり散って、それが川べりの道の上にところどころ一塊《ひとかたま》りになりながら落ちているのがずっと先きの先きの方まで見透《みとお》されていた。
 それから数日間、こんどはお天気のいい日ばかりが続いていた。毎朝私は起きるとすぐその辺まで散歩に行った。しかし私はその花をつけた生墻の前にあんまり長いこと立ちもとおっていないで、それに沿うて素通《すどお》りして来るきりの方が多かった。私は言わば、唯《ただ》、その生墻に間歇《かんけつ》的に簇《むら》がりながら花をつけている野薔薇の与える音楽的効果を楽しみさえすればよかったのであるから。だから或る時などは、それのみを楽しむために、私は故意《わざ》とよそっぽを見ながら歩いたりした。
 或る朝、私はそんな風にサナトリウムの前まで行ってすぐそのまま引っ返して来ると、向うの小さな木橋を渡り、いまその生墻に差しかかったばかりのレエノルズ博士の姿を認めた。すぐ近くの自宅から病院へ出勤して来る途中らしかった。片手に太いステッキを持ち、他《ほか》の手でパイプを握《にぎ》ったまま、少し猫背《ねこぜ》になって生墻の上へ気づかわしそうな視線を注ぎながら私の方へ近づいて来た。が、私を認めると、急にそれから目を離《はな》して、自分の前ばかりを見ながら歩き出した。そんな気がした。私も私で、そんな野薔薇などには目もくれない者のように、そっぽを向きながら歩いて行った。そうして私はすれちがいざま、その老人の焦点《しょうてん》を失ったような空虚《うつろ》な眼差《まなざ》しのうちに、彼の可笑《おか》しいほどな狼狽《ろうばい》と、私を気づまりにさせずにおかないような彼の不機嫌《ふきげん》とを見抜《みぬ》いた。
 それから数日後の或る朝だった。だんだんに夏らしい色を帯び出して来た美しい空が、私にだけ、突然物悲しく閉《とざ》されてしまったように見えた。毎朝のようにそれに沿うて歩きながら、しかし、よく注意して見ようとはしないでいた野薔薇の白い小さな花が、いつの間にやら殆ど全部|蝕《むし》ばまれて、それに黄褐色《おうかっしょく》のきたならしい斑点《はんてん》がどっさり出来てしまっていることに、その朝、私は始めて気がついたのだった。

     ※[#アステリズム、1−12−94]

 ……数年前までは半分|壊《こわ》れかかった水車がごとごと音を立てながら廻《まわ》っていた小さな流れのほとりには、その大抵《たいてい》が三四十年前に外人の建てたと言われる古いバンガロオが雑木林《ぞうきばやし》の間に立ちならんでいたが、そこいらの小径《こみち》はそれが行きづまりなのか、通り抜けられるのか、ちょっと区別のつかないほど、ややっこしかったので、この村へ最初にやって来たばかりの時分には、私はひとりで散歩をする時などは本当にまごまごしてしまうのだった。確かに抜け道らしいんだが、その小径
前へ 次へ
全25ページ中13ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
堀 辰雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング