息《ためいき》をつきながら私が雨戸を繰ろうとした途端に、その節穴《ふしあな》から明るい外光が洩《も》れて来ながら、障子《しょうじ》の上にくっきりした小さな楕円形《だえんけい》の額縁《がくぶち》をつくり、そのなかに数本の落葉松《からまつ》の微細画《ミニュアチュア》を逆さまに描いているのを認めると、私は急に胸をはずませながら、出来るだけ早くと思って、そのため反《かえ》って手間どりながら雨戸を開けた。私が寝床《ねどこ》のなかで雨音かと思っていたのは、それ等の落葉松の細かい葉に溜《たま》っていた雨滴が絶えず屋根の上に落ちる音だったのだ。私はさて、まぶしそうな眼つきで青空を見上げた。私は寝間着のまま一度庭のなかへ出てみたが、それから再び部屋に帰り、そしてフラノの散歩服に着換《きか》えながら、早朝の戸外へと出て行った。私は教会の前を曲って、その裏手の橡《とち》の林を突《つ》き抜けて行った。私はときどき青空を見上げた。いかにもまぶしそうに顔をしかめながら。
私が小さな美しい流れに沿うて歩き出すと、その径《みち》にずっと笹縁《ささべり》をつけている野苺《のいちご》にも、ちょっと人目につかないような花が一ぱい咲いていて、それが或る素晴《すば》らしいもののほんの小さな前奏曲《プレリュウド》だと言ったように、私を迎えた。私は例の木橋の上まで来かかると、どういう積りか自分でも分からずに二三度その上を行ったり来たりした。それから、漸《や》っと、まるで足が地上につかないような歩調で、サナトリウムの裏手の生墻《いけがき》に沿うて行った。私は最初のいくつかの野薔薇の茂《しげ》みを一種の困惑《こんわく》の中にうっかりと見過してしまったことに気がついた。それに気がついた時は、既《すで》に私は彼等の発散している、そして雨上りの湿《しめ》った空気のために一ところに漂いながら散らばらないでいる異常な香《かお》りの中に包まれてしまっていた。私は彼等の白い小さな花を見るよりも先に、彼等の発散する香りの方を最初に知ってしまったのだ。しかし私は立ち止ろうとはせずになおも歩き続けながら、私は今すれちがいつつある一つの野薔薇の上に私のおずおずした最初の視線を投げた。私は、私の胸のあたりから何かを訴《うった》えでもしたいような眼つきで私をじっと見上げている、その小さな茂みの上に、最初二つ三つばかりの白い小さな花を認めたきりだった。が、その次の瞬間《しゅんかん》には、私はその同じ茂みのうちに殆ど二三十ばかりの花と、それと殆ど同数の半ば開きかかった莟《つぼみ》とを数えることが出来た。それはごく僅《わず》かの間だったが、そんな風に私が自分の視線のなかに自分自身を集中させてしまってからと言うもの、そんなにも簇《むら》がっているそれ等の花がもう先刻《さっき》のように好い匂《におい》がしなくなってしまっていることに私は愕《おどろ》いた。そうして改めてそれを嗅《か》ごうとすると、そうするだけ一層それは匂わなくなって行くように見えた。――私は注意深く歩き続けながら、順ぐりにいくつかの野薔薇の木とすれちがって行ったが、とうとう私はいつかレエノルズ博士がその上に身を跼《こご》めていた一つの茂みの前まで来た。私は思わずそこに足を停《と》めた。――
そうして私はその野薔薇の前に、ただ茫然《ぼうぜん》として、何を考えていたのか後で思い出そうとしても思い出せないようなことばかり考えていた。どれよりも最も多くの花を簇がらせているように見えるその野薔薇とそっくりそのままのものを何処《どこ》かで私は一度見たことがあるように思えて、それをしきりに思い出そうとしていたかのようでもあった。――それはすこし長い放心状態の後では、しばしば私にやってくるところの一種独特の錯覚《さっかく》であった。放心のあまりに現在そのものの感じがなくなり、私は現在そのものをしきりに思い出そうとして焦《あせ》っているのかも知れなかった。――それから私は再び我に返って歩き出した。私の沿うて行く生墻には、それらの野薔薇が、同じような高さの他の灌木《かんぼく》の間に雑《まじ》りながら、いくらかずつの間を置いてはならんでいるのだった。あたかも彼等が或る秘密な法則に従ってそう配置されてでもいるかのように。そうしてその微妙《びみょう》な間歇《かんけつ》が、ほとんど足が地につかないような歩調で歩きつつある私の中に、いつのまにか、ほとんど音楽の与えるような一種のリズミカルな効果を生じさせていた。……そうしてそれに似た或る思い出をこんどはさっきと異って、鮮明《せんめい》に私のうちに蘇《よみがえ》らせるのであった。……十年ぐらい前の或る夏休みに、私が初めてこの村へ来た時のこと、宿屋の裏から水車場のある道の方へ抜けられるようになっている、やっと一人《ひとり》だけ
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