見えているのだろう? とそういう現在の私自身にも興味を持ったりした。
 峠を下り切ったところに架《かか》っている白い橋の上に、小さな男の子が一人、鞄《かばん》を背負《せお》ったまま、しょんぼりと立っていた。私の連れ立っている子供たちがその男の子に同時に声をかけた。彼等を見るとその男の子はにっこりと微笑《びしょう》した。が、私にも気がつくと、人見知りでもするかのように、橋の下の渓流《けいりゅう》の方へその小さな顔をそむけた。私も私で、しばらくその渓流をぼんやり見下ろしていた。さっき林のなかの空地で子供の一人《ひとり》が漠然と指したそのずっと上流にあたる方を心のうちに描《えが》きながら。それから私は三人の子供たちに小銭《こぜに》をすこし与《あた》えて、彼等と別れた。

     ※[#アステリズム、1−12−94]

 雨が降り出した。そうしてそれは降り続いた。とうとう梅雨期《ばいうき》に入ったのだった。そんな雨がちょっと小止《おや》みになり、峠の方が薄明るくなって、そのまま晴れ上るかと思うと、峠の向側からやっと匍《は》い上って来たように見える濃霧《のうむ》が、峠の上方一面にかぶさり、やがてその霧がさあと一気に駈け下りて来て、忽《たちま》ち村全帯の上に拡《ひろ》がるのであった。どうかすると、そういう霧がずんずん薄らいで行って、雲の割れ目から菫色《すみれいろ》の空がちらりと見えるようなこともあったが、それはほんの一瞬間きりで、霧はまた次第に濃《こ》くなって、それが何時《いつ》の間にか小雨《こさめ》に変ってしまっていた。
 私はその暗い雲の割れ目からちらりと見える、何とも言えずに綺麗《きれい》な、その菫色がたまらなく好きであった。そうしてそれは、殆《ほと》んど日課のようにしていた長い散歩が雨のために出来なくなっている私にとっては、たとえ一瞬間にもしろそれが見られたら、それだけでもその日の無聊《ぶりょう》が償《つぐな》われたようにさえ思われた程《ほど》であった。――「おまえの可愛《かわ》いい眼の菫、か……」そんなうろおぼえのハイネの詩の切れっぱしが私の口をふと衝《つ》いて出る。「ふん、あいつの眼が、こんな菫色じゃなくって仕合せというものだ。そうでなかった日にや、おれもハイネのようにこう呟《つぶ》やきながら嘆《なげ》いてばかりいなきゃなるまい。――おまえの眼の菫はいつも綺麗に咲《さ》くけれど、ああ、おまえの心ばかりは枯《か》れ果てた……」
 そんな鬱陶《うっとう》しいような日々も、相変らず私の小説の主題は私からともすると逃げて行きそうになるが、私はそれをば辛抱《しんぼう》づよく追いまわしている。私が最初に計画していたところの私自身を主人公とした物語を書くことはとっくに断念していたけれど、私はそれの代りに、その物語の主人公には一体どんな人物を選んだらいいのか、それからしてもう迷っていた。……どうにか一方の老嬢《ろうじょう》は私の物語の中に登場させることは出来ても、もう一方の方は台所で皿《さら》の音ばかりさせているきりで、何時まで経《た》ってもヴェランダに出て来ようとしない二人の老嬢たちの話、冬になるとすっかり雪に埋《うず》まってしまうこんな寒村に一人の看護婦を相手に暮《く》らしている老医師とその美しい野薔薇《のばら》の話、ときどき気が狂《くる》って渓流のなかへ飛び込《こ》んでは罵《ののし》りわめいているという木樵《きこり》の妻とその小娘の話、――そういうような人達のとりとめもない幻像《イマアジュ》ばかりが私の心にふと浮《うか》んではふと消えてゆく……
 或る午後、雨のちょっとした晴れ間を見て、もうぽつぽつ外人たちの這入りだした別荘《べっそう》の並《なら》んでいる水車の道のほとりを私が散歩をしていたら、チェッコスロヴァキア公使館の別荘の中から誰かがピアノを稽古《けいこ》しているらしい音が聞えて来た。私はその隣《とな》りのまだ空いている別荘の庭へ這入りこんで、しばらくそれに耳を傾《かたむ》けていた。バッハのト短調の遁走曲《フウグ》らしかった。あの一つの旋律《メロディ》が繰《く》り返され繰り返されているうちに曲が少しずつ展開して行く、それがまた更に稽古をしているために三四回ずつひとところを繰り返されているので、一層それがたゆたいがちになっている。……それを聴《き》いているうちに、私はまるで魔《ま》にでも憑《つ》かれたような薄気味のわるい笑いを浮べ出していた。そのピアノの音のたゆたいがちな効果が、この頃《ころ》の私の小説を考え悩《なや》んでいる、そのうちにそれがどうやら少しずつ発展して来ているような気もする、そう言った私のもどかしい気持さながらであったからだ。

     ※[#アステリズム、1−12−94]

 或る朝、「また雨らしいな……」と溜
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