うっすらした香《かお》りをかいだ。その香りは、私の鼻先きの髪の毛からというよりも、私の記憶の中から、うっすら浮んでくるように見えた。それは匂《にお》いのしないお前の匂いだ。太陽のにおいだ。麦藁《むぎわら》帽子のにおいだ。……私は眠ったふりをして、その髪の毛のなかに私の頬を埋めていた。お前はじっと動かずにいた。お前も眠ったふりをしていたのか?
早朝、私の父の到着の知らせが私たちを目覚《めざ》ませた。私の母は私の父からはぐれていた。そうしていまだにその行方が分らなかった。私の家の近くの土手へ避難した者は、一人残らず川へ飛び込んだから、ことによるとその川に溺《おぼ》れているのかも知れない。……
そういう父の悲しい物語を聞いているうち、私は漸《ようや》くはっきり目をさましながら、いつのまにか、こっそり涙を流している自分に気がついた。しかしそれは私の母の死を悲しんでいるのではなかった。その悲しみだったなら、それは私がそのためにすぐこうして泣けるには、あまりに大き過ぎる! 私はただ、目をさまして、ふと昨夜の、自分がもう愛していないと思っていたお前、お前の方でももう私を愛してはいまいと思っていた
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