、恋人がいるんだそうだ。毎夏やってくるハンガリイの音楽家でね、その男と町などで逢うと、人中だろうと何だろうと構わずに立ち止まって、黙ってその音楽家の顔を穴のあくほどじっと見つめているのだそうだよ。それがもうかれこれ十年来の意中の人なのだそうだ。」
「あの女にもそんな話がね。」K君はうなずいていた。
「どうもこんなところに来ている外人には突拍子《とっぴょうし》もない奴がいるものだな。――夏あんなに見すぼらしいなりをしていた女が、冬になって誰れもいなくなると、急にすばらしい毛皮の外套なんぞを着込んで林の中をあるいていようなんて、想像もできないことだよ。だが、ああして一人っきりでもって、よく暮らしていられるものだなあ」
「本当によく暮らしているね。……」K君も考え深そうに答えた。
「だが、人のことよりか、君も寒がりのくせに、こんなところでよく我慢しているね。――どうして暮らしているだろうと、ときどき噂をしていたよ。」
「暮らそうとおもえば、どんなことをしても暮らせることが分かったよ。それに寒さだって、こういうものだと思ってしまえば、いくらでも我慢していられるね」
「でも、万里子さん。」と僕
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