しみにしておいてやれとおもって止めた。その代り、食堂にはじめて出るまえに、奮発して髭《ひげ》を剃《そ》ることにした。
[#地から1字上げ]十月十一日朝、ヴェランダにて
けさは八時までゆっくりと寝た。あけがた静かで、寝心地はまことにいい。やっと窓をあけてみると、僕の部屋がすぐ荒池《あらいけ》に面していることだけは分かったが、向う側はまだぼおっと濃い靄《もや》につつまれているっきりで、もうちょっと僕にはお預けという形。なかなかもったいぶっていやあがる。さあ、この部屋で僕にどんな仕事が出来るか、なんだかこう仕事を目の前にしながら嘘みたいに愉《たの》しい。きょうはまあ軽い小手しらべに、ホテルから近い新薬師寺ぐらいのところでも歩いて来よう。
[#地から1字上げ]夕方、唐招提寺にて
いま、唐招提寺《とうしょうだいじ》の松林のなかで、これを書いている。けさ新薬師寺のあたりを歩きながら、「城門のくづれてゐるに馬酔木《あしび》かな」という秋桜子《しゅうおうし》の句などを口ずさんでいるうちに、急に矢《や》も楯《たて》もたまらなくなって、此処に来てしまった。いま、秋の日が一ぱい金堂や講堂にあたって、屋根瓦《やねがわら》の上にも、丹《に》の褪《さ》めかかった古い円柱にも、松の木の影が鮮やかに映っていた。それがたえず風にそよいでいる工合は、いうにいわれない爽《さわ》やかさだ。此処こそは私達のギリシア[#「ギリシア」に傍点]だ――そう、何か現世にこせこせしながら生きているのが厭《いや》になったら、いつでもいい、ここに来て、半日なりと過ごしていること。――しかし、まず一番先きに、小説なんぞ書くのがいやになってしまうことは請合いだ。……はっはっは、いま、これを読んでいるお前の心配そうな顔が目に見えるようだよ。だが、本当のところ、此処にこうしていると、そんなはかない仕事にかかわっているよりか、いっそのこと、この寺の講堂の片隅に埃《ほこり》だらけになって二つ三つころがっている仏頭みたいに、自分も首から上だけになったまま、古代の日々を夢みていたくなる。……
もう小一時間ばかりも松林のなかに寝そべって、そんなはかないことを考えていたが、僕は急に立ちあがり、金堂《こんどう》の石壇の上に登って、扉の一つに近づいた。西日が丁度その古い扉の上にあたっている。そしてそこには殆ど色の褪めてしまった何かの花の大きな文様《もよう》が五つ六つばかり妙にくっきりと浮かび出ている。そんな花文のそこに残っていることを知ったのはそのときがはじめてだった。いましがた松林の中からその日のあたっている扉のそのあたりになんだか綺麗な文様らしいものの浮き出ているのに気がつき、最初は自分の目のせいかと疑ったほどだった。――僕はその扉に近づいて、それをしげしげと見入りながらも、まだなんとなく半信半疑のまま、何度もその花文の一つに手でさわってみようとしかけて、ためらった。おかしなことだが、一方では、それが僕のこのとききりの幻であってくれればいいというような気もしていたのだ。そのうちそこの扉にさしていた日のかげがすうと立ち去った。それと一しょに、いままで鮮やかに見えていたそのいくつかの花文も目のまえで急にぼんやりと見えにくくなってしまった。
[#地から1字上げ]十月十二日、朝の食堂で
けさはもう六時から起きている。朝の食事をするまえに、大体こんどの仕事のプランを立てた。とにかく何処か大和の古い村を背景にして、Idyll 風なものが書いてみたい。そして出来るだけそれに万葉集的な気分を漂わせたいものだとおもう。――ちょっと待った、お前は僕が何かというとすぐイディル[#「イディル」に傍点]のようなものを書きたがるので、またかと思っていることだろう。しかし、本当をいうと、僕は最近ケーベル博士の本を読みかえしたおかげで、いままでいい加減に使っていたそのイディル[#「イディル」に傍点]という様式の概念をはじめてはっきりと知ったのだよ。ケーベル博士によると、イディル[#「イディル」に傍点]というのは、ギリシア語では「小さき絵」というほどの意だそうだ。そしてその中には、物静かな、小ぢんまりとした環境に生きている素朴な人達の、何物にも煩わせられない、自足した生活だけの描かれることが要求されている。……どうだ、分かったかい、僕がそれより他にいい言葉がなかったので半ば間にあわせに使っていたイディル[#「イディル」に傍点]というのが、思いがけず僕の考えていたものとそっくりそのままなのだ。もうこれからは安心して使おう。いい訳語が見つかってくれればいいが(どうも牧歌[#「牧歌」に傍点]なんぞと訳してしまってはまずいんだ)……
さて、お講義はこの位にしておいて、こんどの奴はどんな主題にしてやろうか。なんしろ、万葉風となると
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