、はじめての領分なのだから、なかなかおいそれとは手ごろな主題も見つかるまい。そのくせ、一つのものを考え出そうとすると、あれもいい、これもちょっと描けそうだ、と一ぺんにいろんなものが浮かんで来てしまってしようがない。
 ままよ、きょうは一日中、何処か古京のあとでもぶらぶら歩きながら、なまじっかこっちで主題を選ぼうなどとしないで、どいつでもいい、向うでもって僕をつかまえるような工合にしてやろう。……
 僕はそんな大様《おおよう》な気もちで、朝の食事をすませて、食堂を出た。

[#地から1字上げ]午後、海竜王寺にて
 天平時代の遺物だという転害門《てがいもん》から、まず歩き出して、法蓮《ほうれん》というちょっと古めかしい部落を過ぎ、僕はさもいい気もちそうに佐保路《さおじ》に向い出した。
 此処、佐保山のほとりは、その昔、――ざっと千年もまえには、大伴氏などが多く邸宅を構え、柳の並木なども植えられて、その下を往来するハイカラな貴公子たちに心ちのいい樹蔭をつくっていたこともあったのだそうだけれど、――いまは見わたすかぎり茫々《ぼうぼう》とした田圃《たんぼ》で、その中をまっ白い道が一直線に突っ切っているっきり。秋らしい日ざしを一ぱいに浴びながら西を向いて歩いていると、背なかが熱くなってきて苦しい位で、僕は小説などをゆっくりと考えているどころではなかった。漸《や》っと法華寺村《ほっけじむら》に著《つ》いた。
 村の入口からちょっと右に外れると、そこに海竜王寺《かいりゅうおうじ》という小さな廃寺がある。そこの古い四脚門の陰にはいって、思わずほっとしながら、うしろをふりかえってみると、いま自分の歩いてきたあたりを前景にして、大和平《やまとだいら》一帯が秋の収穫を前にしていかにもふさふさと稲の穂波を打たせながら拡がっている。僕はまぶしそうにそれへ目をやっていたが、それからふと自分の立っている古い門のいまにも崩れて来そうなのに気づき、ああ、この明るい温かな平野が廃都の跡なのかと、いまさらのように考え出した。
 私はそれからその廃寺の八重葎《やえむぐら》の茂った境内にはいって往って、みるかげもなく荒れ果てた小さな西金堂《さいこんどう》(これも天平の遺構だそうだ……)の中を、はずれかかった櫺子《れんじ》ごしにのぞいて、そこの天平好みの化粧天井裏を見上げたり、半ば剥落《はくらく》した白壁の上に描きちらされてある村の子供のらしい楽書を一つ一つ見たり、しまいには裏の扉口からそっと堂内に忍びこんで、磚《せん》のすき間から生えている葎までも何か大事そうに踏まえて、こんどは反対に櫺子の中から明るい土のうえにくっきりと印せられている松の木の影に見入ったりしながら、そう、――もうかれこれ小一時間ばかり、此処でこうやって過ごしている。女の来るのを待ちあぐねている古《いにしえ》の貴公子のようにわれとわが身を描いたりしながら。……

[#地から1字上げ]夕方、奈良への帰途
 海竜王寺を出ると、村で大きな柿を二つほど買って、それを皮ごと噛《かじ》りながら、こんどは佐紀山《さきやま》らしい林のある方に向って歩き出した。「どうもまだまだ駄目だ。それに、どうしてこうおれは中世的に出来上がっているのだろう。いくら天平好みの寺だといったって、こんな小っちゃな寺の、しかもその廃頽《はいたい》した気分に、こんなにうつつを抜かしていたのでは。……こんな事では、いつまで立っても万葉気分にはいれそうにもない。まあ、せいぜい何処やらにまだ万葉の香りのうっすらと残っている伊勢物語風なものぐらいしか考えられまい。もっと思いきりうぶな、いきいきとした生活気分を求めなくっては。……」そんなことを僕は柿を噛り噛り反省もした。
 僕はすこし歩き疲れた頃、やっと山裾の小さな村にはいった。歌姫《うたひめ》という美しい字名《あざな》だ。こんな村の名にしてはどうもすこし、とおもうような村にも見えたが、ちょっと意外だったのは、その村の家がどれもこれも普通の農家らしく見えないのだ。大きな門構えのなかに、中庭が広くとってあって、その四周に母屋も納屋も家畜小屋も果樹もならんでいる。そしてその日あたりのいい、明るい中庭で、女どもが穀物などを一ぱいに拡げながらのんびりと働いている光景が、ちょっとピサロの絵にでもありそうな構図で、なんとなく仏蘭西《フランス》あたりの農家のような感じだ。
 ちょっとその中にはいって往って、女どもと、その村の聞きとりにくいような方言かなんかで話がしてみたかったのだけれど、気軽にそんなことの出来るような性分ならいい。僕ときたひには、そうやって門の外からのぞいているところを女どもにちらっと見とがめられただけで、もうそこには居たたまれない位になるのだからね。……
 気の小さな僕が、そうやって農家の前に立ち止
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