大和路・信濃路
堀辰雄

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)藁屋根《わらやね》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)随分|迂闊《うかつ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#アステリズム、1−12−94]
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  樹下


 その藁屋根《わらやね》の古い寺の、木ぶかい墓地へゆく小径《こみち》のかたわらに、一体の小さな苔蒸《こけむ》した石仏が、笹むらのなかに何かしおらしい姿で、ちらちらと木洩れ日に光って見えている。いずれ観音像かなにかだろうし、しおらしいなどとはもってのほかだが、――いかにもお粗末なもので、石仏といっても、ここいらにはざらにおる脆《もろ》い焼石、――顔も鼻のあたりが欠け、天衣《てんね》などもすっかり磨滅し、そのうえ苔がほとんど半身を被《おお》ってしまっているのだ。右手を頬にあてて、頭を傾《かし》げているその姿がちょっとおもしろい。一種の思惟象《しゆいぞう》とでもいうべき様式なのだろうが、そんなむずかしい言葉でその姿を言いあらわすのはすこしおかしい。もうすこし、何んといったらいいか、無心な姿勢だ。それを拝しながら過ぎる村人たちだって、彼等の日常生活のなかでどうかした工合でそういった姿勢をしていることもあるかも知れないような、親しい、なにげなさ[#「なにげなさ」に傍点]なのだ。……そんな笹むらのなかの何んでもない石仏だが、その村でひと夏を過ごしているうちに、いつかその石仏のあるあたりが、それまで一度もそういったものに心を寄せたことのない私にも、その村での散歩の愉《たの》しみのひとつになった。ときどきそこいらの路傍から採ってきたような可憐な草花が二つ三つその前に供えられてあることがある。村の子供らのいたずららしい。が、そんなのではない、もうすこしちゃんとした花が供えられ、お線香なども上がっていたことも、その夏のあいだに二三度あった。

    ※[#アステリズム、1−12−94]

「お寺の裏の笹むらのなかに、こう、ちょっとおもしろい恰好《かっこう》をした石仏があるでしょう? あれはなんでしょうか?」夏の末になって、私はその寺のまだ四十がらみの、しかしもう鋭く痩《や》せた住職からいろいろ村の話を聴いたあとで、そう質問をした。
「さあ、わたしもあの石仏のことは何もきいておりませんが、どういう由緒のものですかな。かたちから見ますと、まあ如意輪観音《にょいりんかんのん》にちかいものかと思いますが。……何しろ、ここいらではちょっと類のないもので、おそらく石工がどこかで見覚えてきて、それを無邪気に真似でもしたのではないでしょうか?……」
「そういうこともあるんですか? それはいい。……」私にはその説がすっかり気に入った。たしかに、その像をつくったものは、その形相の意味をよく知っていてそう造ったのではない。ただその形相そのものに対する素朴な愛好からそういうものを生んだのだ。そうしてその故に、――そこにまだわずかにせよ残っているかも知れない原初の崇高な形相にまで、私のようなものの心をあくがれしめるのであろうか? こんないかにもなにげない像ですら。……
「ときどきお花やお線香などが上がっているようですが、村の人たちはあの像にも何か特別な信仰をもっているのですか?」
 最後に私はそんなこともきいてみた。
「さあ、それもいつごろからの事だか知りませんけれど、わりに近頃になってからだそうですが、歯を病む子をつれて、村の年よりどもがよく拝みに来ます。」そういってその住職は笑った。
「あの指先で頬を支えている思惟の相が、村びとにはなんのことやら分からなくって、いつかそんな俗信を生むようになったと見えますな。」
「それはいくら何んでも……」そう言いかけたが、しかしそのまま私は口をつぐんで、これから秋になって、夜ごとに虫がすだいて啼《な》きはじめるあの笹むらのなかで、相変らず、じいっと小さな頭を傾げているだろうその無心そうな像を、ふいと目のうちに蘇《よみがえ》らせた。いつのまにこの像がこんなに自分にとって親しみのあるものになってしまったのだろうと訝《いぶか》りながら。……

    ※[#アステリズム、1−12−94]

 それから数年立って、私もときどき大和のほうへ出かけては、古い寺や名だかい仏像などを見て歩いたりするようになったが、そんな旅すがら、路傍などによく見かける名もない小さな石仏のようなものにも目を止めるようにしていた。そういうものの中には私の心を惹《ひ》くようなものもかなりあるにはあったが、数年前信濃の山のべの村で見つけたあんなような味わいのあるものは一つも見出せなかった。そして
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