、私はときどきあの笹むらのなかで小さな頭を傾げていた観音像を好んで思いだしていた。もとより旅にあってはほどよく感傷的になるのも好いとおもっている私のことだから、それが単なる自己の感傷に過ぎなくても、それもそれで好いとおもっていた。
 云ってみれば、それはそれまで何年かその山ちかい村で孤独に暮らしていた自分をもその一部とした信濃そのものに対する一種のなつかしさでもあろうし、又、こうやって大和の古びた村々をひとりでさまよい歩いているいまの自分の旅すがたは旅すがたで、そんな数年前の何か思いつめていたような自分がそういったはかないものにまで心を寄せながら、いつかそれを通してひそかにあくがれていたものでもあったのであろう。ともかくも、その笹むらのなかの小さな思惟像は、何かにつけて、旅びとの私にはおもい出されがちだった。

    ※[#アステリズム、1−12−94]

 或る秋の日にひとりで心ゆくまで拝してきた中宮寺《ちゅうぐうじ》の観音像。――その観音像の優しく力づよい美しさについては、いまさら私なんぞの何もいうことはない。ただ、この観音像がわれわれをかくも惹きつけ、かくも感嘆せしめずにはおかない所以《ゆえん》の一つは、その半跏思惟《はんかしゆい》の形相そのものであろうと説かれた浜田博士の闊達《かったつ》な一文は私の心をいまだに充たしている。その後も、二三の学者のこの像の半跏思惟の形の発生を考察した論文などを読んだりして、それがはるかにガンダラの樹下思惟像あたりから発生して来ているという説などもあることを知り、私はいよいよ心に充ちるものを感じた。
 あのいかにも古拙《アルカイック》なガンダラの樹下思惟像――仏伝のなかの、太子が樹下で思惟三昧《しゆいざんまい》の境にはいられると、その樹がおのずから枝を曲げて、その太子のうえに蔭をつくったという奇蹟を示す像――そういう異様に葉の大きな一本の樹を装飾的にあしらった、浅浮彫りの、数箇の太子思惟像の写真などをこの頃手にとって眺めたりしているときなど、私はまた心の一隅であの信濃の山ちかい村の寺の小さな石仏をおもい浮かべがちだった。

    ※[#アステリズム、1−12−94]

 一つの思惟像《しゆいぞう》として、瞑想《めいそう》の頬杖をしている手つきが、いかにも無様《ぶざま》なので、村人たちには怪しい迷信をさえ生じさせていたが、――そのうえ、鼻は欠け落ち、それに胸のあたりまで一めんに苔《こけ》が生えていて、……そういえば、そんなにそれが苔づくほど、その石仏のあるあたりは、どんな夏の日ざかりにもいつも何かひえびえとしていて、そこいらまで来ると、ふいと好い気もちになってひとりでに足も止まり、ついそのままそこの笹むらのなかの石仏の上へしばらく目を憩わせる。と、苔の肌はしっとりとしている。ちょっとそれを撫でてみたくなるような見事さで。――そう、いまのいままでそれに気がつかなかったのは、いや、気がついていてもそれを何とも思わずにいたのは随分|迂闊《うかつ》だが、あそこは何かの大きな樹の下だったにちがいない。――すこし離れてみなければ、それが何んの樹だかも分からないほどの大きな樹だったのだ。あの頬杖をしている小さな石仏のうえにちらちらしていた木洩れ日も、よほど高いところから好い工合に落ちてきていたので、あんなに私を夢み心地にさせたのだったろう。
 あれは一体、何んの樹だったのだろうか?……そんなことをおもいながら、私はふと樹下思惟[#「樹下思惟」に傍点]という言葉を、その言葉のもつ云いしれずなつかしい心像を、身にひしひしと感じた。あれは一体、何んの樹? ……だが、あの大きな樹の下で、ひとり静かに思惟にふけっていたもの――それはあの笹むらのなかに小さな頭を傾《かし》げていた石仏だったろうか? それとも、それに見入りながらその怪しげな思惟像をとおしてはるか彼方のものに心を惹《ひ》かれていた私のほうではなかったろうか?
 それにしても、あそこには、――あの何やらメエルヘンめいた石仏の前には、いまだにあの愚かな村びとどもの香花が絶えないだろうか? 子供たちがそこいらの路傍から摘んでくるかわいらしい草花だけならいいが……


  十月


   一

[#地から1字上げ]一九四一年十月十日、奈良ホテルにて
 くれがた奈良に著いた。僕のためにとっておいてくれたのは、かなり奥まった部屋で、なかなか落ちつけそうな部屋で好い。すこうし仕事をするのには僕には大きすぎるかなと、もうここで仕事に没頭している最中のような気もちになって部屋の中を歩きまわってみたが、なかなか歩きでがある。これもこれでよかろうという事にして、こんどは窓に近づき、それをあけてみようとして窓掛けに手をかけたが、つい面倒になって、まあそれくらいはあすの朝の楽
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