まり立ち止まり、二三軒見て歩いているうちに、急に五六人の村の子たちに立ちよられて、怪訝《けげん》そうに顔をじろじろ見られだしたのには往生した。そのあげく、僕はまるでそんな村の子たちに追われるようにして、その村を出た。
 その村はずれには、おあつらえむきに、鎮守の森があった、僕はとうとう追いつめられるように、その森のなかに逃げ込み、そこの木蔭でやっと一息ついた。

[#地から1字上げ]十月十三日、飛火野にて
 きょうは薄曇っているので、何処へも出ずに自分の部屋に引《ひ》き籠《こも》ったまま、きのうお前に送ってもらった本の中から、希臘悲劇集《ギリシアひげきしゅう》をとりだして、それを自分の前に据え、別にどれを読み出すということもなしにあちらこちら読んでいた。そのうち突然、そのなかの一つの場面が僕の心をひいた。舞台は、アテネに近い、或る村はずれの森。苦しい流浪の旅をつづけてきた父と娘との二人づれが漸っといまその森まで辿《たど》りついたところ。盲いた老人が自分の手をひいている娘に向って、「此処はどこだ」と聞く。旅やつれのした娘はそれでも老父を慰めるようにこたえる。「お父う様、あちらにはもう都の塔が見えまする。まだかなり遠いようではございますが。ここでございますか、ここはなんだかこう神さびた森で。……」
 老いたる父はその森が自分の終焉《しゅうえん》の場所であるのを予感し、此処にこのまま止まる決心をする。
 その神さびた森を前にして、その不幸な老人の最後の悲劇が起ろうとしているらしいのを読みかけ、僕はおぼえず異様な身ぶるいをした。僕はしかしそのときその本をとじて、立ち上がった。このまま此の悲劇のなかにはいり込んでしまっては、もうこんどの自分の仕事はそれまでだとおもった。……
 こういうものを読むのは、とにかくこんどの可哀らしい仕事がすんでからでなくては。――そう自分に言ってきかせながら、僕はホテルを出た。
 もう十一時だ。僕はやっぱりこちらに来ているからには、一日のうちに何か一つぐらいはいいものを見ておきたくなって、博物館にはいり、一時間ばかり彫刻室のなかで過ごした。こんなときにひとつ何か小品で心《こころ》愉《たの》しいものをじっくり味わいたいと、小型の飛鳥仏《あすかぶつ》などを丹念に見てまわっていたが、結局は一番ながいこと、ちょうど若い樹木が枝を拡げるような自然さで、六本の腕を一ぱいに拡げながら、何処か遥かなところを、何かをこらえているような表情で、一心になって見入っている阿修羅王《あしゅらおう》の前に立ち止まっていた。なんというういういしい、しかも切ない目ざしだろう。こういう目ざしをして、何を見つめよとわれわれに示しているのだろう。
 それが何かわれわれ人間の奥ぶかくにあるもので、その一心な目ざしに自分を集中させていると、自分のうちにおのずから故しれぬ郷愁のようなものが生れてくる、――何かそういったノスタルジックなものさえ身におぼえ出しながら、僕はだんだん切ない気もちになって、やっとのことで、その彫像をうしろにした。それから中央の虚空蔵菩薩《こくぞうぼさつ》を遠くから見上げ、何かこらえるように、黙ってその前を素通りした。

[#地から1字上げ]夜、寝床の上で
 とうとう一日中、薄曇っていた。午後もまたホテルに閉じこもり、仕事にもまだ手のつかないまま、結局、ソフォクレェスの悲劇を再びとりあげて、ずっと読んでしまった。
 この悲劇の主人公たちはその最後の日まで何んという苦患《くげん》に充ちた一生を送らなければならないのだろう。しかも、そういう人間の苦患の上には、なんの変ることもなく、ギリシアの空はほがらかに拡がっている。その神さびた森はすべてのものを吸い込んでしまうような底知れぬ静かさだ。あたかもそれが人間の悲痛な呼びかけに対する神々の答えででもあるかのように。――
 薄曇ったまま日が暮れる。夜も、食事をすますと、すぐ部屋にひきこもって、机に向う。が、これから自分の小説を考えようとすると、果して午後読んだ希臘悲劇《ギリシアひげき》が邪魔をする。あらゆる艱苦《かんく》を冒して、不幸な老父を最後まで救おうとする若い娘のりりしい姿が、なんとしても、僕の心に乗ってきてしまう。自分も古代の物語を描こうというなら、そういう気高い心をもった娘のすがたをこそ捉まえようと努力しなくては。……
 でも、そういうもの、そういった悲劇的なものは、こんどの仕事がすんでからのことだ、こんど、こちらに滞在中に、古い寺や仏像などを、勉強かたがた、僕が心《こころ》愉《たの》しく書こうというのには、やはり「小さき絵」位がいい。
 まあ、最初のプランどおり、その位のものを心がけることにして、僕は万葉集をひらいたり埴輪《はにわ》の写真を並べたりしながら、十二時近くまで起きてい
前へ 次へ
全32ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
堀 辰雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング