立ち出でた。

   二

[#地から1字上げ]十月十八日、奈良ホテルにて
 きょうは雨だ。一日中、雨の荒池をながめながら、折口博士の「古代研究」などを読んでいた。
 そのなかに人妻となって子を生んだ葛《くず》の葉《は》という狐の話をとり上げられた一篇があって、そこにこういう挿話が語られている。或る秋の日、その葛の葉が童子をあやしながら大好きな乱菊の花の咲きみだれているのに見とれているうちに、ふいと本性に立ち返って、狐の顔になる。それに童子が気がつき急にこわがって泣き出すと、その狐はそれっきり姿を消してしまう、ということになるのだが、その乱菊の花に見入っているその狐のうっとりとした顔つきが、何んとも云えず美しくおもえた。それもほんの一とおりの美しさなんぞではなくて、何かその奥ぶかくに、もっともっと思いがけないものを潜めているようにさえ思われてならなかった。
 僕も、その狐のやつに化かされ出しているのでないといいが……

[#地から1字上げ]十月十九日、戒壇院の松林にて
 きょうはまたすばらしい秋日和《あきびより》だ。午前中、クロオデルの「マリアへのお告げ」を読んだ。
 数年まえの冬、雪に埋もれた信濃の山小屋で、孤独な気もちで読んだものを、もう一遍、こんどは秋の大和路の、何処かあかるい空の下で、読んでみたくて携えてきた本だが、やっとそれを読むのにいい日が来たわけだ。
 雪の中で、いまよりかずっと若かった僕は、この戯曲を手にしながら、そこに描かれている一つの主題――神的なるものの人間性のなかへの突然の訪れといったようなもの――を、何か一枚の中世風な受胎告知図を愛するように、素朴に愛していることができた。いまも、この戯曲のそういう抒情的な美しさはすこしも減じていない。だが、こんどは読んでいるうちにいつのまにか、その女主人公ヴィオレエヌの惜しげもなく自分を与える余りの純真さ、そうしているうちに自分でも知《し》らず識《し》らず神にまで引き上げられてゆく驚き、その心の葛藤《かっとう》、――そういったものに何か胸をいっぱいにさせ出していた。
 三時ごろ読了。そのまま、僕は何かじっとしていられなくなって、外に出た。博物館の前も素どおりして、どこへ往くということもなしに、なるべく人けのない方へ方へと歩いていた。こういうときには鹿なんぞもまっぴらだ。
 戒壇院《かいだんいん》をとり囲んだ松林の中に、誰もいないのを見すますと、漸《や》っと其処に落ちついて、僕は歩きながらいま読んできたクロオデルの戯曲のことを再び心に浮かべた。そうしてこのカトリックの詩人には、ああいう無垢《むく》な処女を神へのいけにえにするために、ああも彼女を孤独にし、ああも完全に人間性から超絶せしめ、それまで彼女をとりまいていた平和な田園生活から引き離すことがどうあっても必然だったのであろうかと考えて見た。そうしてこの戯曲の根本思想をなしているカトリック的なもの、ことにその結末における神への讃美のようなものが、この静かな松林の中で、僕にはだんだん何か異様《ことざま》なものにおもえて来てならなかった。

[#地から1字上げ]三月堂の金堂にて
 月光菩薩像《がっこうぼさつぞう》。そのまえにじっと立っていると、いましがたまで木の葉のように散らばっていたさまざまな思念ごとそっくり、その白みがかった光の中に吸いこまれてゆくような気もちがせられてくる。何んという慈《いつく》しみの深さ。だが、この目をほそめて合掌をしている無心そうな菩薩の像には、どこか一抹《いちまつ》の哀愁のようなものが漂っており、それがこんなにも素直にわれわれを此の像に親しませるのだという気のするのは、僕だけの感じであろうか。……
 一日じゅう、たえず人間性への神性のいどみのようなものに苦しませられていただけ、いま、この柔かな感じの像のまえにこうして立っていると、そういうことがますます痛切に感ぜられてくるのだ。

[#地から1字上げ]十月二十日夜
 きょうははじめて生駒山を越えて、河内の国|高安《たかやす》の里のあたりを歩いてみた。
 山の斜面に立った、なんとなく寒ざむとした村で、西の方にはずっと河内の野が果てしなく拡がっている。
 ここから二つ三つ向うの村には名だかい古墳群などもあるそうだが、そこまでは往って見なかった。そうして僕はなんの取りとめもないその村のほとりを、いまは山の向う側になって全く見えなくなった大和の小さな村々をなつかしそうに思い浮かべながら、ほんの一時間ばかりさまよっただけで、帰ってきた。
 こないだ秋篠の里からゆうがた眺めたその山の姿になにか物語めいたものを感じていたので、ふと気まぐれに、そこまで往ってその昔の物語の匂いをかいできただけのこと。(そうだ、まだお前には書かなかったけれど、僕はこのごろはね、伊
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