勢物語なんぞの中にもこっそりと探りを入れているのだよ。……)
 夕方、すこし草臥《くたび》れてホテルに帰ってきたら、廊下でばったり小説家のA君に出逢った。ゆうべ遅く大阪からこちらに著《つ》き、きょうは法隆寺へいって壁画の模写などを見てきたが、あすはまた京都へ往くのだといっている。連れがふたりいた。ひとりはその壁画の模写にたずさわっている奈良在住の画家で、もうひとりは京都から同道の若き哲学者である。みんなと一しょに僕も、自分の仕事はあきらめて、夜おそくまで酒場で駄弁《だべ》っていた。

[#地から1字上げ]十月二十一日夕
 きょうはA君と若き哲学者のO君とに誘われるがままに、僕も朝から仕事を打棄《うっちゃ》って、一しょに博物館や東大寺をみてまわった。
 午後からはO君の知っている僧侶の案内で、ときおり僕が仕事のことなど考えながら歩いた、あの小さな林の奥にある戒壇院《かいだんいん》の中にもはじめてはいることができた。
 がらんとした堂のなかは思ったより真っ暗である。案内の僧があけ放してくれた四方の扉からも僅かしか光がさしこんでこない。壇上の四隅に立ちはだかった四天王の像は、それぞれ一すじの逆光線をうけながら、いよいよ神々しさを加えているようだ。
 僕は一人きりいつまでも広目天《こうもくてん》の像のまえを立ち去らずに、そのまゆねをよせて何物かを凝視している貌《かお》を見上げていた。なにしろ、いい貌だ、温かでいて烈《はげ》しい。……
「そうだ、これはきっと誰か天平時代の一流人物の貌をそっくりそのまま模してあるにちがいない。そうでなくては、こんなに人格的に出来あがるはずはない。……」そうおもいながら、こんな立派な貌に似つかわしい天平びとは誰だろうかなあと想像してみたりしていた。
 そうやって僕がいつまでもそれから目を放さずにいると、北方の多聞天《たもんてん》の像を先刻から見ていたA君がこちらに近づいてきて、一しょにそれを見だしたので、
「古代の彫刻で、これくらい、こう血の温かみのあるのは少いような気がするね。」と僕は低い声で言った。
 A君もA君で、何か感動したようにそれに見入っていた。が、そのうち突然ひとりごとのように言った。「この天邪鬼《あまのじゃく》というのかな、こいつもこうやって千年も踏みつけられてきたのかとおもうと、ちょっと同情するなあ。」
 僕はそう言われて、はじめてその足の下に踏みつけられて苦しそうに悶《もだ》えている天邪鬼に気がつき、A君らしいヒュウマニズムに頬笑みながら、そのほうへもしばらく目を落した。……
 数分後、戒壇院の重い扉が音を立てながら、僕たちの背後に鎖《とざ》された。再びあの真っ暗な堂のなかは四天王の像だけになり、其処には千年前の夢が急にいきいきと蘇《よみがえ》り出していそうなのに、僕は何んだか身の緊《しま》るような気がした。
 それから僕たちは僧侶の案内で、東大寺の裏へ抜け道をし、正倉院がその奥にあるという、もの寂びた森のそばを過ぎて、畑などもある、人けのない裏町のほうへ歩いていった。
 と、突然、僕たちの行く手には、一匹の鹿が畑の中から犬に追い出されながらもの凄い速さで逃げていった。そんな小さな葛藤《かっとう》までが、なにか皮肉な現代史の一場面のように、僕たちの目に映った。

[#地から1字上げ]十月二十三日、法隆寺に向う車窓で
 きのうは朝から一しょう懸命になって、新規に小説の構想を立ててみたが、どうしても駄目だ。きょうは一つ、すべての局面転換のため、最後のとっておきにしていた法隆寺へ往って、こないだホテルで一しょに話した画家のSさんに壁画の模写をしているところでも見せてもらって、大いに自分を発奮させ、それから夢殿《ゆめどの》の門のまえにある、あの虚子の「斑鳩《いかるが》物語」に出てくる、古い、なつかしい宿屋に上がって、そこで半日ほど小説を考えてくるつもりだ。

[#地から1字上げ]十月二十四日、夕方
 きのう、あれから法隆寺へいって、一時間ばかり壁画を模写している画家たちの仕事を見せて貰いながら過ごした。これまでにも何度かこの壁画を見にきたが、いつも金堂のなかが暗い上に、もう何処もかも痛いたしいほど剥落《はくらく》しているので、殆ど何も分からず、ただ「かべのゑのほとけのくにもあれにけるかも」などという歌がおのずから口ずさまれてくるばかりだった。――それがこんど、金堂《こんどう》の中にはいってみると、それぞれの足場の上で仕事をしている十人ばかりの画家たちの背ごしに、四方の壁に四仏浄土を描いた壁画の隅々までが蛍光灯のあかるい光のなかに鮮やかに浮かび上がっている。それが一層そのひどい剥落のあとをまざまざと見せてはいるが、そこに浮かび出てきた色調の美しいといったらない。画面全体にほのかに漂っている透明な空
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