らなかった。なんぼなんでも、そんな古瓦など買った日には重くって、持てあますばかりだろうから、又こんど来ることにして、何も買わずに出た。
 裏山のかげになって、もうここいらだけ真先きに日がかげっている。薬師寺の方へ向ってゆくと、そちらの森や塔の上にはまだ日が一ぱいにあたっている。
 荒れた池の傍をとおって、講堂の裏から薬師寺にはいり、金堂や塔のまわりをぶらぶらしながら、ときどき塔の相輪《そうりん》を見上げて、その水煙《すいえん》のなかに透《す》かし彫《ぼり》になって一人の天女の飛翔《ひしょう》しつつある姿を、どうしたら一番よく捉まえられるだろうかと角度など工夫してみていた。が、その水煙のなかにそういう天女を彫り込むような、すばらしい工夫を凝らした古人に比べると、いまどきの人間の工夫しようとしてる事なんぞは何んと間が抜けていることだと気がついて、もう止める事にした。
 それから僕はもと来た道を引っ返し、すっかり日のかげった築土道《ついじみち》を北に向って歩いていった。二三度、うしろをふりかえってみると、松林の上にその塔の相輪だけがいつまでも日に赫《かがや》いていた。
 裏門を過ぎると、すこし田圃《たんぼ》があって、そのまわりに黄いろい粗壁《あらかべ》の農家が数軒かたまっている。それが五条《ごじょう》という床しい字名《あざな》の残っている小さな部落だ。天平の頃には、恐らくここいらが西の京の中心をなしていたものと見える。
 もうそこがすぐ唐招提寺の森だ。僕はわざとその森の前を素どおりし、南大門《なんだいもん》も往き過ぎて、なんでもない木橋の上に出ると、はじめてそこで足を止めて、その下に水草を茂らせながら気もちよげに流れている小川にじいっと見入りだした。これが秋篠川のつづきなのだ。
 それから僕は、東の方、そこいら一帯の田圃《たんぼ》ごしに、奈良の市のあたりにまだ日のあたっているのが、手にとるように見えるところまで歩いて往ってみた。
 僕は再び木橋の方にもどり、しばらくまた自分の仕事のことなど考え出しながら、すこし気が鬱《ふさ》いで秋篠川にそうて歩いていたが、急に首をふってそんな考えを払い落し、せっかくこちらに来ていて随分ばかばかしい事だと思いながら、裏手から唐招提寺の森のなかへはいっていった。
 金堂《こんどう》も、講堂も、その他の建物も、まわりの松林とともに、すっかりもう陰ってしまっていた。そうして急にひえびえとしだした夕暗のなかに、白壁だけをあかるく残して、軒も、柱も、扉も、一様に灰ばんだ色をして沈んでゆこうとしていた。
 僕はそれでもよかった。いま、自分たち人間のはかなさをこんなに心にしみて感じていられるだけでよかった。僕はひとりで金堂の石段にあがって、しばらくその吹《ふ》き放《はな》しの円柱のかげを歩きまわっていた。それからちょっとその扉の前に立って、このまえ来たときはじめて気がついたいくつかの美しい花文《かもん》を夕暗のなかに捜して見た。最初はただそこいらが数箇所、何かが剥《は》げてでもしまった跡のような工合にしか見えないでいたが、じいっと見ているうちに、自分がこのまえに見たものをそこにいま思い出しているのに過ぎないのか、それともそれが本当に見え出してきたのか、どちらかよく分からない位の仄《ほの》かさで、いくつかの花文がそこにぼおっと浮かび出していた。……
 それだけでも僕はよかった。何もしないで、いま、ここにこうしているだけでも、僕は大へん好い事をしているような気がした。だが、こうしている事が、すべてのものがはかなく過ぎてしまう僕たち人間にとって、いつまでも好いことではあり得ないことも分かっていた。
 僕はきょうはもうこの位にして、此処を立ち去ろうと思いながら、最後にちょっとだけ人間の気まぐれを許して貰うように、円柱の一つに近づいて手で撫でながら、その太い柱の真んなかのエンタシスの工合を自分の手のうちにしみじみと味わおうとした。僕はそのときふとその手を休めて、じっと一つところにそれを押しつけた。僕は異様に心が躍った。そうやってみていると、夕冷えのなかに、その柱だけがまだ温かい。ほんのりと温かい。その太い柱の深部に滲《し》み込《こ》んだ日の光の温かみがまだ消えやらずに残っているらしい。
 僕はそれから顔をその柱にすれすれにして、それを嗅《か》いでみた。日なたの匂いまでもそこには幽《かす》かに残っていた。……
 僕はそうやって何んだか気の遠くなるような数分を過ごしていたが、もうすっかり日が暮れてしまったのに気がつくと、ようやっと金堂から下りた。そうして僕はその儘《まま》、自分の何処かにまだ感ぜられている異様な温かみと匂いを何か貴重なもののようにかかえながら、既に真っ暗になりだしている唐招提寺の門を、いかにもさりげない様子をして
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