る。これもこれで、いい気もちではないか。――ああ、またどこかで七面鳥のやつが啼いているな。なんだか僕はこのまますこし気が遠くなってゆきそうだ。……

    ※[#アステリズム、1−12−94]

 その夕がたのことである。その日、浄瑠璃寺から奈良坂を越えて帰ってきた僕たちは、そのまま東大寺の裏手に出て、三月堂をおとずれたのち、さんざん歩き疲れた足をひきずりながら、それでもせっかく此処まで来ているのだからと、春日《かすが》の森のなかを馬酔木の咲いているほうへほうへと歩いて往ってみた。夕じめりのした森のなかには、その花のかすかな香りがどことなく漂って、ふいにそれを嗅《か》いだりすると、なんだか身のしまるような気のするほどだった。だが、もうすっかり疲れ切っていた僕たちはそれにもだんだん刺戟《しげき》が感ぜられないようになりだしていた。そうして、こんな夕がた、その白い花のさいた間をなんということもなしにこうして歩いて見るのをこんどの旅の愉しみにして来たことさえ、すこしももう考えようともしなくなっているほど、――少くとも、僕の心は疲れた身体とともにぼおっとしてしまっていた。
 突然、妻がいった。
「なんだか、ここの馬酔木と、浄瑠璃寺にあったのとは、すこしちがうんじゃない? ここのは、こんなに真っ白だけれど、あそこのはもっと房が大きくて、うっすらと紅味を帯びていたわ。……」
「そうかなあ。僕にはおんなじにしか見えないが……」僕はすこし面倒くさそうに、妻が手ぐりよせているその一枝へ目をやっていたが、「そういえば、すこうし……」
 そう言いかけながら、僕はそのときふいと、ひどく疲れて何もかもが妙にぼおっとしている心のうちに、きょうの昼つかた、浄瑠璃寺の小さな門のそばでしばらく妻と二人でその白い小さな花を手にとりあって見ていた自分たちの旅すがたを、何んだかそれがずっと昔の日の自分たちのことででもあるかのような、妙ななつかしさでもって、鮮やかに、蘇《よみがえ》らせ出していた。


  橇の上にて


 そこの小屋のなかで待っていてくれと云われるまま、しばらく五六人の馭者《ぎょしゃ》らしい人たちの間に割りこんで、手もちぶさたそうに炉の火にあたっていたが、みんなの吹かしている煙草にむせて急に咳が出だしたので、僕は小屋のそとに出ていって、これから自分のはいってゆこうとする志賀山の案内図をながめたり、小さな雪がちらちらとふっているなかを何んとなく歩いてみたりしていた。雪の質は乾いてさらさらとしているし、風もないので、零下何度だか知らないけれど、寒さはそうひどく感ぜられなかった。そのうちに、向うの厩《うまや》の中から、さいぜんの若い馭者が馬の口をとりながら、一台の雪橇《ゆきぞり》を曳き出して来るのが見えた。僕は雪橇《ゆきぞり》というものをはじめて見た。――粗末な箱型をしたものに、幌《ほろ》とはほんの名ばかりの、継ぎはぎだらけの鼠《ねずみ》いろの布を被《おお》っただけのものである。馭者台《ぎょしゃだい》なんぞもない。それもそのはず、馭者は馬のさきに立って雪のなかを歩いてゆくのである。
 その橇が自分の前に横づけになったものの、どこから乗っていいのか分からないでまごまごしていると、馭者が飛んできて、幌をもちあげながら入口をあけてくれた。ふとそのなかに茣蓙《ござ》の敷いてあるのが目にとまったので、僕はいそいで靴をぬごうとすると、その儘《まま》あがれという。そこで僕はほんのまね事のように外套《がいとう》を叩いたり、靴の雪を払い落したりして、首をこごめるようにして幌の中にはいった。そのなかはまあ二人で差し向いに腰かけるのがやっと位だが、そこには座蒲団《ざぶとん》や毛布から、火鉢の用意までしてある。火鉢には火もどっさり入れてある。――寒いから、その火鉢に足をのせて、その上からその毛布をかけよと云ってくれる。そう云うとおりに、僕がそこにあった毛布をひろげて膝の上にかけ出すのを見とどけると、馭者は幌をすっかり下ろして、馬のほうへ飛んでいった。

    ※[#アステリズム、1−12−94]

 やがて雪橇はごとんごとんと動き出した。あまり揺られ心ちのいいものではなかった。それに幌には窓が一つもついていないので、全然おもての景色の見られないのが何よりの欠点だ。――このままこうしてごとんごとんと揺られながら、毛布の中に小さくなっていたんでは、いくら寒さはしのげても、なんにも見えず、わざわざ雪のなかまでやってきたかいがない。そこで幌を少しもち上げてみたが、その位のことでは、道ばたに積みあげられた雪のほかは何んにも見えない。……
 が、さっきから首すじがすこし寒いとはおもっていたが、そこのところだけ幌の布がなんだか綻《ほころ》んだようになっていて、ひらひらしているのにはじめて気
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