がついた。ためしにそれをちょっと手でもち上げて見ると、小さな窓のような工合になる。僕はこれはいいとおもって、そこに目を近づけると、ちょうど村の一番最後の家らしい、なかば雪に埋もれた一軒の茶店のようなものが通り過ぎた。ちょっとの間だったのに、もうそうとう雪が深そうだ。
そのうちにあちこちの森だの山だのが見えて来る。細かい雪がいちめんにふりしきっているので、それもほんの近いものだけしか見えなかったが。……それでも、僕は自分が生れて初めて見るような雪の山のなかにはいり出していることを感じだしていた。だが、そうやって外ばかり眺めていると、そこから細かい雪がたえず舞いこんでくるとみえ、膝のうえの毛布がうっすら白くなっている。僕はその毛布を軽くはたきながら、すこし坐りなおして、しばらく目を休めることにした。なんにも見えなくとも、自分の身体のかしぎかたで、上りが急になったり、また、すこし楽になったりしてゆく工合がよく分かる。なんだか自分の不安定の感じが或る度を過してくると、橇のほうもいつか止まってしまっている。馬が息をつくためにしばらく休むのである。雪の中にぽつんぽつんと立っている樹木なんぞを見ても、四方から雪を吹きつけられているので、どのくらい雪が深いのだかちょっと見当がつかない。橇道はちゃんとついているらしいが、ずっと上りづめらしく、馬も、馭者も、ずいぶん骨を折っているのだろうと思った。
又、橇がとまった。こんどはだいぶ長くとまっているな、と思っていると、雪の中から急におもいがけない話しごえが聞えだした。どうやら向うから下りてくる雪橇があって、道をゆずりあっているらしい。――「まだあとからも来るか」と向うの馭者が問うと、
「いや、もうこれが最後だ」とこちらの馭者が答えている。……そのうち僕の橇が動きだして向うの橇とすれちがおうとするとき、突然、向うの馭者が何かはげしく自分の馬を叱したので、ひょいと例の穴からのぞいて見ると、道を避けようとして片がわの積雪のなかへ深くはいり込んでしまった橇を曳き出そうとして、一しょう懸命になっている馬は、ほとんど胸のあたりまで雪に埋っていた。なんども前脚を雪のなかから引き抜こうとしてば、そこらじゅうに雪煙りをちらしていた。僕もそのとばっちりを受けそうになって、いそいで顔をひっこめたが、向うの橇はすっぽりと幌を下ろしてはいるものの、空のようだった。
続いて、もう一台の橇とすれちがった。こんどはどうやらうまくすれちがったようだったが、それも空らしかった。
そうやって二台の橇とすれちがって、しばらくしてから僕はふいと時計を出してみると、橇に乗ってから一時間ばかりも経っているので、ああ、もうこんなに乗っていたのかと意外におもいながら、一体、いまどのへんなのだろうと、又、例の穴に顔を近づけてみると、ちょうど自分の橇の通っている岨《そば》の、ずっと下のほうの谷のようなところを二台の橇がずんずん下りてゆくのが、それだけが唯一の動きつつあるものとして、いかにもなつかしげに見やられた。それにしても、あれがいましがた自分とすれちがった橇かとおもわれる位、そんなにもう下のほうまで往っているのには驚いた。そうしてそれと共に、僕ははじめて自分のいつのまにかはいり出している山の深さに気がついてきた。それほど自分のそれまでの視野のうちには、いつまで経っても、同じような白い山、同じような白い谷、同じような恰好《かっこう》をした白い木立しかはいって来ないでいたのだった。
※[#アステリズム、1−12−94]
僕はそれから橇のなかに再び坐りなおして、がたんがたん揺られるがままになりながら、いよいよ自分も久恋の雪の山に来ているのだなとおもった。ずいぶん昔から、いまのように、こうしてただ雪の山のなかにいること、――それだけをどんなに自分は欲して来たことだろう。べつに雪の真只中でどうしようというのでもない。――スポルティフになれない弱虫の僕は、ただこういう雪の中にじっとして、真白な山だの(――そう、山もそんなに大それたものでなくとも、丁度いま自分の前にあるような小品風なものでいい……)、真白な谷だの(――谷もあの谷で結構……)、雪をかぶったいくつかの木立のむれ(――あそこに立っている樺《かば》のような木などはなかなか好いではないか……)などをぼんやり眺めてさえいればよかった。
ただすこし慾をいえば、ほんの真似だけでもいい、――真白な空虚にちかい、このような雪のなかをこうして進んでいるうちに、ふいと馭者も馬も道に迷って、しばらく何処をどう通っているのだか分からなくなり、気がついてみると、同じところを一まわりしていたらしく、さっきと同じ場所に出ている――そんな純粋な時間がふいと持てたらどんなに好かろう、とそんな他愛のないことだけ
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