、いろんな花がさいていて。綺麗ね……」
「そうだす。いまはほんまに綺麗やろ。そやけれど、あこの菖蒲《あやめ》の咲くころもよろしいおまっせ。それからまた、夏になるとなあ、あこの睡蓮が、それはそれは綺麗な花をさかせまっせ。……」そう言いながら、急に少女は何かを思い出したようにひとりごちた。「ああ、そやそや、葱《ねぎ》とりに往かにゃならんかった。」
「そうだったの、それは悪かったわね。はやく往ってらっしゃいよ。」
「まあ、あとでもええわ。」
それから二人は急に黙ってしまっていた。
僕はそういう二人の話を耳にはさみながら、九体仏《くたいぶつ》をすっかり見おわると、堂のそとに出て、そこの縁さきから蓮池のほうをいっしょに眺めている二人の方へ近づいていった。
僕は堂の扉を締めにいった少女と入れかわりに、妻のそばになんということもなしに立った
「もう、およろしいの?」
「ああ。」そう言いながら、僕はしばらくぼんやりと観仏に疲れた目を蓮池のほうへやっていた。
少女が堂の扉を締めおわって、大きな鍵を手にしながら、戻ってきたので、
「どうもありがとう。」と言って、さあ、もう少女を自由にさせてやろうと妻に目くばせをした。
「あこの塔も見なはんなら、御案内しまっせ。」少女は池の向うの、松林のなかに、いかにもさわやかに立っている三重塔のほうへ僕たちを促した。
「そうだな、ついでだから見せて貰おうか。」僕は答えた。「でも、君は用があるんなら、さきにその用をすましてきたらどうだい?」
「あとでもええことだす。」少女はもうその事はけろりとしているようだった。
そこで僕が先きに立って、その岸べには菖蒲《あやめ》のすこし生い茂っている、古びた蓮池のへりを伝って、塔のほうへ歩き出したが、その間もまた絶えず少女は妻に向って、このへんの山のなかで採れる筍《たけのこ》だの、松茸《まつたけ》だのの話をことこまかに聞かせているらしかった。
僕はそういう彼女たちからすこし離れて歩いていたが、実によくしゃべる奴だなあとおもいながら、それにしてもまあ何んという平和な気分がこの小さな廃寺をとりまいているのだろうと、いまさらのようにそのあたりの風景を見まわしてみたりしていた。
傍らに花さいている馬酔木《あしび》よりも低いくらいの門、誰のしわざか仏たちのまえに供えてあった椿の花、堂裏の七本の大きな柿の木、秋になってその柿をハイキングの人々に売るのをいかにも愉《たの》しいことのようにしている寺の娘、どこからかときどき啼《な》きごえの聞えてくる七面鳥、――そういう此のあたりすべてのものが、かつての寺だったそのおおかたが既に廃滅してわずかに残っているきりの二三の古い堂塔をとりかこみながら――というよりも、それらの古代のモニュメントをもその生活の一片であるかのようにさりげなく取り入れながら、――其処にいかにも平和な、いかにも山間の春らしい、しかもその何処かにすこしく悲愴《ひそう》な懐古的気分を漂わせている。
自然を超えんとして人間の意志したすべてのものが、長い歳月の間にほとんど廃亡に帰して、いまはそのわずかに残っているものも、そのもとの自然のうちに、そのものの一部に過ぎないかのように、融《と》け込《こ》んでしまうようになる。そうして其処にその二つのものが一つになって――いわば、第二の自然が発生する。そういうところにすべての廃墟の云いしれぬ魅力があるのではないか? ――そういうパセティックな考えすらも(それはたぶんジムメルあたりの考えであったろう)、いまの自分にはなんとなく快い、なごやかな感じで同意せられる。……
僕はそんな考えに耽《ふけ》りながら歩き歩き、ひとりだけ先きに石段をあがり、小さな三重塔の下にたどりついて、そこの松林のなかから蓮池をへだてて、さっきの阿弥陀堂《あみだどう》のほうをぼんやりと見かえしていた。
「ほんまになあ、しょむないとこでおまっせ。あてら、魚食うたことなんぞ、とんとおまへんな。蕨《わらび》みてえなものばっかり食ってんのや。……筍はお好きだっか。そうだっか。このへんの筍はなあ、ほんまによろしうおまっせ。それは柔《やわ》うて、やわうて……」
そんなことをまた寺の娘が妻を相手にしゃべりつづけているのが下の方から聞えてくる。――彼女たちはそうやって石段の下で立ち話をしたまま、いつまでたってもこちらに上がって来ようともしない。二人のうえには、何んとなく春めいた日ざしが一ぱいあたっている。僕だけひとり塔の陰にはいっているものだから、すこし寒い。どうも二人ともいい気もちそうに、話に夢中になって僕のことなんぞ忘れてしまっているかのようだ。が、こうして廃塔といっしょに、さっきからいくぶん瞑想的《めいそうてき》になりがちな僕もしばらく世問のすべてのものから忘れ去られてい
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