かたわらに、丁度いまをさかりと咲いていた一本の馬酔木をふと見いだしたときだった。
 最初、僕たちはその何んの構えもない小さな門を寺の門だとは気づかずに危く其処を通りこしそうになった。その途端、その門の奥のほうの、一本の花ざかりの緋桃《ひもも》の木のうえに、突然なんだかはっとするようなもの、――ふいとそのあたりを翔《か》け去《さ》ったこの世ならぬ美しい色をした鳥の翼のようなものが、自分の目にはいって、おやと思って、そこに足を止めた。それが浄瑠璃寺の塔の錆《さび》ついた九輪《くりん》だったのである。
 なにもかもが思いがけなかった。――さっき、坂の下の一軒家のほとりで水菜を洗っていた一人の娘にたずねてみると、「九体寺《くたいじ》やったら、あこの坂を上りなはって、二丁ほどだす」と、そこの家で寺をたずねる旅びとも少くはないと見えて、いかにもはきはきと教えてくれたので、僕たちはそのかなり長い急な坂を息をはずませながら上り切って、さあもうすこしと思って、僕たちの目のまえに急に立ちあらわれた一かたまりの部落とその菜畑を何気なく見過ごしながら、心もち先きをいそいでいた。あちこちに桃や桜の花がさき、一めんに菜の花が満開で、あまつさえ向うの藁屋根《わらやね》の下からは七面鳥の啼《な》きごえさえのんびりと聞えていて、――まさかこんな田園風景のまっただ中に、その有名な古寺が――はるばると僕たちがその名にふさわしい物古りた姿を慕いながら山道を骨折ってやってきた当の寺があるとは思えなかったのである。……
「なあんだ、ここが浄瑠璃寺らしいぞ。」僕は突然足をとめて、声をはずませながら言った。「ほら、あそこに塔が見える。」

「まあ本当に……」妻もすこし意外なような顔つきをしていた。
「なんだかちっともお寺みたいではないのね。」
「うん。」僕はそう返事ともつかずに言ったまま、桃やら桜やらまた松の木の間などを、その突きあたりに見える小さな門のほうに向って往った。何処かでまた七面鳥が啼いていた。
 その小さな門の中へ、石段を二つ三つ上がって、はいりかけながら、「ああ、こんなところに馬酔木が咲いている。」と僕はその門のかたわらに、丁度その門と殆ど同じくらいの高さに伸びた一本の灌木《かんぼく》がいちめんに細かな白い花をふさふさと垂らしているのを認めると、自分のあとからくる妻のほうを向いて、得意そうにそれを指さして見せた。
「まあ、これがあなたの大好きな馬酔木の花?」妻もその灌木のそばに寄ってきながら、その細かな白い花を仔細《しさい》に見ていたが、しまいには、なんということもなしに、そのふっさりと垂れた一と塊りを掌のうえに載せたりしてみていた。
 どこか犯しがたい気品がある、それでいて、どうにでもしてそれを手折って、ちょっと人に見せたいような、いじらしい風情をした花だ。云わば、この花のそんなところが、花というものが今よりかずっと意味ぶかかった万葉びとたちに、ただ綺麗なだけならもっと他にもあるのに、それらのどの花にも増して、いたく愛せられていたのだ。――そんなことを自分の傍でもってさっきからいかにも無心そうに妻のしだしている手まさぐりから僕はふいと、思い出していた。
「何をいつまでもそうしているのだ。」僕はとうとうそう言いながら、妻を促した。
 僕は再び言った。「おい、こっちにいい池があるから、来てごらん。」
「まあ、ずいぶん古そうな池ね。」妻はすぐついて来た。「あれはみんな睡蓮ですか?」
「そうらしいな。」そう僕はいい加減な返事をしながら、その池の向うに見えている阿弥陀堂《あみだどう》を熱心に眺めだしていた。

    ※[#アステリズム、1−12−94]

 阿弥陀堂へ僕たちを案内してくれたのは、寺僧ではなく、その娘らしい、十六七の、ジャケット姿の少女だった。
 うすぐらい堂のなかにずらりと並んでいる金色《こんじき》の九体仏《くたいぶつ》を一わたり見てしまうと、こんどは一つ一つ丹念にそれを見はじめている僕をそこに残して、妻はその寺の娘とともに堂のそとに出て、陽あたりのいい縁さきで、裏庭の方かなんぞを眺めながら、こんな会話をしあっている。
「ずいぶん大きな柿の木ね。」妻の声がする。
「ほんまにええ柿の木やろ。」少女の返事はいかにも得意そうだ。
「何本あるのかしら? 一本、二本、三本……」
「みんなで七本だす。七本だすが、沢山に成りまっせ。九体寺の柿やいうてな、それを目あてに、人はんが大ぜいハイキングに来やはります。あてが一人で※[#てへん+宛、第3水準1−84−80]《も》いで上げるのだすがなあ、そのときのせわしい事やったらおまへんなあ。」
「そうお。その時分、柿を食べにきたいわね。」
「ほんまに、秋にまたお出でなはれ。この頃は一番あきまへん。なあも無うて……」
「でも
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