途中に起る。ある道の曲り角で、夕日に照らされてゐるマルタンヴィルの鐘塔を認めたとき、彼はなんとも云ひやうのない悦びを感ずる。「私にはそれらの姿を地平線に認めて私の受けた悦びの理由は分らなかつたし、その理由を是が非でも發見しようとすることはずゐぶん苦しいやうに思はれた。……」そのうちその鐘塔の背後に隠されてゐるものがいくらかづつ彼にはつきりしてくる。これまでになかつたやうなある考へが浮んでくる。それが言葉といふ形式をとり出す。彼は醫師から鉛筆と紙を貰ふと、すぐその場で、鐘塔の與へつつある印象を書きつける。それを書き上げてしまふと、とても嬉しくなつて、彼は聲をかぎりに歌ひはじめる。
第三の場合は、シャンゼリゼエで少女たちと遊び疲れて、自分の家への歸り途、四目垣のある亭《ちん》の黴くさいやうな臭ひを嗅ぐと、突然、いままで潛伏してゐた幻《イマアジュ》が浮び上るのだ。その幻はそれとそつくり同じやうにじめじめした臭ひのしてゐた、コンブレエのアドルフ叔父さんの小さな部屋のそれなのだ。しかし何故こんなつまらない幻の喚起がこんなにも異樣な悦びを彼に與へるのか分らないでゐる。
第四の場合。バルベックの
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