だった。
 私は勿論《もちろん》、よろこんで自分の知っている限りのことを彼女に答えた。
 のみならず、私は夫人に気に入ろうとするのあまり、夫人の質問を待とうとせずに、私だけの知っているA氏の秘密まで、いくつとなく洩《も》らした位であった。たとえば、こういうことまでも私は夫人に話したのである。――私はA氏とともに、第何回かのフランス美術展覧会にセザンヌの絵を見に行ったことがあった。私達はしばらくその絵の前から離れられずにいたが、その時あたりに人気《ひとけ》のないのを見すますと、いきなり氏はその絵に近づいて行って、自分の小指を唇で濡らしながら、それでもってその絵の一部をしきりに擦《こす》っていた。
 私が思わずそれから不吉な予感を感じて、そっと近づいて行くと、氏はその緑色になった小指を私に見せながら、「こうでもしなければ、この色はとても盗めないよ。」と低い声でささやいたのであった。……
 私はそういう話をしながら、A氏について異常な好奇心を持っているらしいこの夫人が、いつか私にも或る特別な感情を持ち出しているらしいことを見逃《みのが》さなかった。
 そのうちに私達の話題は、夫人の所有してい
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