る氏の作品の上に落ちて行った。
 私は、さっきから待ちに待っていたこの機会をすばやく捕えるが早いか、私の用件を切り出したのである。
 するとそれに対して彼女の答えたことはこうであった。
「あの絵はもうA氏の絵として、世間の人々にお見せすることは出来ないのです。たとえそれをお見せしたところで、誰もそれを本物として取扱ってはくれないでしょう。何故と云いますと、あの絵はもう、それが数年前に持っていたとおりの姿を持っていないからです。」
 彼女の云うことは私にはすぐ理解されなかった。私は、ことによるとこの夫人は気の毒なことにすこし気が変になっているのかも知れないと考え出した位であった。
「あなたは数年前のあの絵をよく憶えていらっしゃいますか?」と彼女が云った。
「よく憶えています。」
「それなら、あれを一度お見せさえしたら……」
 夫人はしばらく何か躊躇《ちゅうちょ》しているように見えた。やがて彼女は云った。
「……よろしゅうございます。私はそれをあなたにお見せいたします。私はそれを私だけの秘密として置きたかったのですけれど。――私はいま、このように眼を病んでおります。ですから、私がまだこんな
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