、二つのものが浮びます。一つは釈迢空の「死者の書」を荘厳にいろどっていたあの落日の美しさです。それからもう一つは、フランシス・トムスンが「落日頌」(Ode to the setting sun)の中で歌った、あの野なかの十字架のうえを血で染めたように赫やかせながら没してゆく太陽の神々しさです。――向うの山の端に、いま、くるめき入ろうとしているあの太陽は、「死者の書」に描かれてある、ああいった山越しの阿弥陀像《あみだぞう》めいても感ぜられ、それにもしいんとするような美しさを感じますが、それは何んといっても、やはり僕は、この雪の野のなかに、太陽の最後の光をあびて血に染まったようになって悲痛に立っている一本の十字架を求めたいような気がします。
 主 釈迢空と、フランシス・トムスンか。なかなか重厚な好みだな。……僕はきのうね、こんな落日を眺めながら、ふいと飛騨《ひだ》の山のなかの或る落日をおもい浮かべていた。もちろん、想像裡《そうぞうり》のものだがね。――「鷲の巣の楠の枯枝に日は入りぬ」どうだ、凄い image だろう。凡兆の句だよ。「越《こし》より飛騨へ行くとて籠《かご》の渡りのあやふきとこ
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