のことを思い出したそうだ。なんでも霜のひどく下りた朝のことで、山のほうから追われて来たらしいその鹿は、丁度その石崖のところまで来ると、ちょいと背後をふりむいてから、其処をすうっと跳びおりて、下の畠のなかを湯川《ゆがわ》のほうへ一散に逃げていった。そうしてその畠の真白な霜の上には、その鹿の傷ついた足の血が鮮やかに残っていたという話だ。……そんなことをきいてから、その石崖にかぎらず、この村のあちこちに残っている石崖のひとつひとつが、僕にはなんとなく意味ありげに思われて来てならなかった。まあ、そういった鹿の跳び越えていった石垣だとか、秋になると蔦《つた》かずらが真紅になったまま捲きついている、何か悽惨《せいさん》な感じの、遊女らしい小さな墓だとか、――そういうものなら、そのほかにも、まだまだ何かありそうだね、これという話らしい話がそれに伴っていなくとも。
学生 三好さんの詩にも、何処かの山村を、一匹の傷ついた鹿が足を縛られたまま、猟師にかつがれてゆく詩がありますね。あれは何処かしら?
主 伊豆の湯ヶ島あたりの風景だろう。僕は残念だが、とうとう鹿は見られなかった。向うの小瀬《こせ》あたりで
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