ろう。とおもうと、そんな昔から今日まで、断絶せずに続いている一つの鎖が見えるような気がしている。自分がその一方の端に触れたので、もう一方の端が揺れたのだ。真理と美とがあの大司祭の庭のなかで人びとを導いた、そうしていまもなおそれが我々を導いている。そう考えると、学生には急に自分に青春と幸福の感じが帰ってきて、人生が何か崇高な意味に充ちみちているように思われて来る。――そういった筋の、五六頁ばかりの短篇なのです。しかし、僕はそれを読んで、なんだかその学生と一しょになって泣きたいほど、感動しました。
 主 ふむ、いい短篇だね。僕は読みそこなっていたが、いつかその本を貸してくれたまえ。しかし、君の話だけでも、大体は分かるね。ちょっと其処にある聖書をとってくれないか。そこのところを読んでみよう。ルカ伝だったね。(聖書をひらいて読む)「……やがて鶏鳴きぬ。主、ふりかえりてペテロに目をとめ給う。ここにペテロ、主の「今日にわとり鳴く前に、なんじ三度《みたび》われを否《いな》まん」と言い給いし御言《みことば》を憶《おも》いだし、外に出でて甚《いた》く泣けり。」――鶏が鳴くと、遠くからイエスが焚火《たきび》にあたっているペテロの方をふりむいて見る、するとペテロは急にイエスに言われた言葉を思い出し、はっと我に返って、庭の外へ出ていって、暗がりのなかではげしく泣き出すのだね。チェホフの短篇の話をきいて、ここのところを読むと、なんだかこう一層、そのときのペテロの慟哭《どうこく》が身ぢかに感ぜられて来るようだな。
 学生 僕はこの短篇を読んだときにも思ったのですけれど、このペテロの話にしろ、いつかお書きになっていたエマオの旅びとの話にしろ、そんな縁遠いような物語がおもいがけず僕らの身ぢかに迫って来て、妙に感動させられることがあるのですが、それに反して日本の古い物語はいかに美しく、なつかしいと思っても、それだけの強い力がないような気がするのです。何か fatal なものの前にわれわれを無気力にさせてしまいます。そのチェホフの短篇は、まず、森のなかのもの寂しい自然の描写ではじまっています。チェホフの筆だと其処が非常に美しいんですが、そういうもの寂しい自然がすっかりその学生の心をめいらせているのです。――そんなものからチェホフは小説を書きはじめていますが、日本のいいものはそれとは反対に、一番最後にそ
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