ういうところへわれわれを引きずり込んでゆくように思われるんですけれど……。
主 確かにそういうところがあるだろう。これから君たちは大いにそういう fatal なものと戦ってみるのだね。僕なんぞも僕なりには戦ってきたつもりだ。だんだんそういう fatal なものに一種の詮《あきら》めにちかい気もちも持ち出しているにはいるが。しかし、まだまだ※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]《も》がけるだけ※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]がいてみるよ。……(ぱあっと夕日があたって来だしたのを見て、窓をあける。)毎日、こうして雪のなかの落日を眺めるのが愉《たの》しみだ。なんだか一日じゅう、冬の日ざしが明る過ぎて、室内にいても雪の反射でまぶしくって本も読めずに、ぼやぼやしながらその日も終ろうとする、――そんな空《うつ》ろな気もちでいるときでも、この雪の野を赤あかと赫《かが》やかせながら山のかなたに落ちてゆこうとしている日を眺めると、急に身も心もしまるような気がするのだ。君はいま、こういう落日をみながら、どんな文学的感情を喚《よ》び起《おこ》すかね?
学生 そうですね。僕には、いま、二つのものが浮びます。一つは釈迢空の「死者の書」を荘厳にいろどっていたあの落日の美しさです。それからもう一つは、フランシス・トムスンが「落日頌」(Ode to the setting sun)の中で歌った、あの野なかの十字架のうえを血で染めたように赫やかせながら没してゆく太陽の神々しさです。――向うの山の端に、いま、くるめき入ろうとしているあの太陽は、「死者の書」に描かれてある、ああいった山越しの阿弥陀像《あみだぞう》めいても感ぜられ、それにもしいんとするような美しさを感じますが、それは何んといっても、やはり僕は、この雪の野のなかに、太陽の最後の光をあびて血に染まったようになって悲痛に立っている一本の十字架を求めたいような気がします。
主 釈迢空と、フランシス・トムスンか。なかなか重厚な好みだな。……僕はきのうね、こんな落日を眺めながら、ふいと飛騨《ひだ》の山のなかの或る落日をおもい浮かべていた。もちろん、想像裡《そうぞうり》のものだがね。――「鷲の巣の楠の枯枝に日は入りぬ」どうだ、凄い image だろう。凡兆の句だよ。「越《こし》より飛騨へ行くとて籠《かご》の渡りのあやふきとこ
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