弘の母などに見てもらいながら、娘たちは大騒ぎをして花を活《い》けているのである。――弘はときどき足を投げ出して、仰向けに寝ころんでは、娘たちの笑い声にじっと耳をすます。そうしてその五六人の笑い声の中から或る一つの笑い声だけを聞き分けようとしている。やっとそれがかすかに他から区別されて聞えることがある。するとその笑い声だけが急に一瞬間高くなって、他の声が見る見る低くなっていくような気がする。そうしてその笑いは、少年の目の前に、晴れやかに笑っている、一つの可愛らしい娘の顔の image を喚起させる。が、その笑いは再び他の笑いに消されがちになっていって、それと一緒にその可愛らしい image もだんだん暈《ぼや》けていく。少年はそれだけでも満足して、再び起き上って、茶ぶ台に向うのであった。……
 すると路地のうちに小きざみな足音がして、格子ががらりと開いたので、もうおばさんが帰ってきたのかしらと思って、弘がふりむいてみると、おばさんではない。半分開いた格子戸に手をかけたまま、派手な銀杏《いちょう》がえしに結った若い娘が、大きな目をして、彼の方を見つめている。
「なあんだ、照ちゃんか。おばさんかと思ったら……」弘はちらっとそっちを見たきり、いそいで目を伏せながら、そうつぶやいた。
「母さんは?」
「中洲のおばさんのところへ行っているんだ。」
 お照という娘は、そのままちょっと格子に手をかけて、どうしようかと言ったように突立っていたが、とうとう中へはいってきた。
「構わずに上ってよ。……勉強のお邪魔にはならなくて?」
「うん……」いいんだか、悪いんだか分らないような返事をしたきりである。
 そんな従弟《いとこ》の方をお照はとりつくしまがなさそうに見ながら、茶の間へは上ったものの、何処《どこ》へ坐ったらいいかと躊躇《ちゅうちょ》しているようだったが、とうとう三畳の長火鉢の、いつもおばさんの坐っている場所へ、そうっと坐った。弘もまた弘で、自分の背後にそういうお照を意識し出してからは、茶ぶ台には向っていても、もう帳面の上に円や線を描くことは中止して、ぼんやりと頬杖《ほおづえ》をしているきりである。しかし、お照の方へは目をやろうとも、声をかけようともしない。この頃|向島《むこうじま》から芸妓《げいぎ》に出るようになったお照がまたときどきこのおばさん(――お照にとっても実の叔母なのだが、彼女が両親に死にわかれてから一時この家へ養女になっていたので、そのうちに折合が悪くなってこの家を飛び出してしまっている今でも、彼女はこの叔母のことを「母《かあ》さん」と呼んでいるのである。)の家へ遊びにくるようになっているのは知ってもいたし、二三度顔を合わせたこともあるが、さて、こんな風に二人きりで差し向いになって見ると、相手がいかにも芸妓らしくなりすましているだけ、昔のように口を利《き》くのが弘には何となく気まりが悪いのである。しかし、そういうお照に対して、弘の好奇心はかなり烈《はげ》しく動いている。
 しばらくの間、二人はちょいと気づまりな沈黙を続けていた。
「母さんは何時頃から出かけて?」
 遠慮がちにではあったが、持ち前のすこししゃがれたような声で、お照がやっとそれを破った。
「お午《ひる》頃。」弘は矢張り背中を向けたまま、ぶっきら棒に返事をした。
「もう三時過ぎだから、もう帰ってきそうなもんね?」と半ばひとりごとのように、お照はつぶやいた。そうしてそのまま、又、二人はちょっと黙り合っている。
「あああ……」と弘はとうとう溜《たま》らなくなったように、欠伸《あくび》をわざと大きくしながら、足を投げ出した。そうしてくるりと横になった。と、その途端に、さっきからちっとも娘たちの騒ぎが聞えて来ないでいることに弘ははじめて気がついた。なんだかひっそりしている。何をしているんだろう、と弘はしばらくお照を忘れて、そっちの方へ気をとられていた。……
「お茶でも淹《い》れましょうか?」膝《ひざ》の上で何やら本を読み出していたお照が、ふいとその本から目を上げて、弘に言った。
「こっちへいらっしゃらない?」
「うん。」
 弘はやっと渋々と起き上って、長火鉢のそばへ行った。そしてお照の反対の側にどかりと坐りながら、うしろの障子に背中をもたらせながら、立膝をしたまま、お照の顔をまぶしそうに見つめた。
「そんな風に人の顔を見るものじゃなくってよ。」
「だって、ずいぶん変な顔だもの。」
 少年は、精いっぱいの皮肉を言ったつもりでいるらしい。そう言って、さも嘲《あざ》けるように笑っている。事実、顔の浅黒い娘が頸《くび》にだけ真白にお白粉《しろい》をつけているのが変てこだと思っているのである。
「まあ、ご挨拶《あいさつ》ね、……弘ちゃんにはかなわないわ。」
 娘は目を伏せたまま、いまま
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