で膝にのせていた洋綴《ようとじ》の本を下に置いた。そうしてその表紙を無意味に見ている。
「何を読んでいるんだい? 小説?」それを少年は覗《のぞ》き込むようにして見た。
「ええ、弘ちゃんも小説読むの?」
「僕だって小説ぐらいは読むさあ……それは何んの小説だい?」
「モオパスサンよ……でも、こんなのは弘ちゃんは読まない方がいいわ……」
「そんなのは知らないや……僕は探偵小説の方がいい。」
 少年だってモオパスサンがどんな外国の作家だぐらいはこっそり聞き噛《かじ》っている。しかし、わざと娘にそんな返事をしてやった。だから、少年は大した皮肉を言ってやったつもりでいる。そうして、ふと、昔、自分が十ぐらいで、この娘がまだ十三四でこの家に養女分でいた時分、ただもうこの年上の娘をいじめるのが面白くっていじめたりしていた時のような、子供らしい残酷な心もちが、現在の自分の心のうちにも蘇《よみがえ》って来るように感ずる。なんでもないことに腹を立てて、この年上の娘を撲《なぐ》ったり、足蹴《あしげ》にしたりしたが、娘の方では一度も自分にはむかって来ようとはしない。ただ、少年にされるがままになっている。そこに他の者が居合わせても別に留めようともしない。少年はしまいには、ただ面白ずくでそんな風に娘をいじめるようになっていた。……ところが、一度、どうしたのか娘は顔を真青にして、いきなり少年にむしゃぶりついてきた。少年はびっくりして、それっきりもう娘に手出しをしなくなった。……娘がそのおばさんの家を最初に飛び出したのは、それから間もないことであった。……
 そんな風にやっと二人が打ち解けて話し合いだした時分に、がらりと格子のあく音がした。二人がふりむいて見ると、それは弘の母であった。
「おや、照ちゃんもいたのかい?」
 少年は自分の母を見ると、長火鉢からすこし居退《いざ》るようにして、障子に出来るだけぴったりと体を押しつけるようにしている。お照とこんな風に差し向いで話をしているところを母に見つかって、いかにも気まりが悪そうである。
「こんちは。……そこの髪結さんまで来たんでちょっと寄ってみたの。……なんだかすこし根がつまりすぎて……」そんなことをお照はしゃあしゃあと答えながら、それが気になるように結い立ての銀杏がえしへ手をやっている。
 弘の母はそっちをちらっと見て、
「よく結えたよ」と愛想よく言って、それから弘に向って「弘ちゃん、ちょっと御供所《おみきしょ》までいって、お父さんを呼んできておくれでないか。お花の先生がちょっとお呼びですからって。……いったらいったきりで、ちょっとやそっとでは帰って来ないんだからね。……ほんとに困っちまう。」
 それを聞くと、弘はいそいで立ち上って、まるで逃げ出しでもするようにして、下駄を突っかけたまま、おもてへ飛び出していった。
 それから、弘の母は二言三言お照と立ち話をしていたが、いそがしそうに再び自分の家へ帰って行ってしまった。あとには、お照が一人だけ長火鉢の傍《そば》に取り残された。
 お照は、それから暫《しばら》くぼんやりと、いましがた弘の勉強していた茶ぶ台の方を眺《なが》めていた。茶ぶ台の上には、まだ何やらわけのわからぬ図形や記号の一ぱい描きちらされている帳面が、開けたまんまになっている。――そんなお照の心にはいつか、よくその同じ場所で、ひとりで落語の稽古《けいこ》をしていた死んだ清ちゃんの後姿が蘇ってきている。清ちゃんもずいぶん不幸な人だったらしいけれど、――と、お照はそれからしばらく、自分にも、弘にも叔父にあたる、かつ若という落語家だった、その清ちゃんの不幸な身の上を考えるともなく考えている。……若い時から落語家の円三さんの弟子になっていたが、中途でぐれ出して、旅廻りの浪花節《なにわぶし》語りにまで身を堕《おと》していたが、そのうち再び落語家の小かつさんに拾われ、それからは心をいれかえて一しょう懸命に高座を勤めていたので、小かつさんにも可愛がられ、真打《しんうち》になったら自分の名を襲《つ》がせてやろうとまで言われるようになったのに、若いとき身を持ち崩した祟《たた》りで、悪い病気がとうとう脳にきて、その頃|同棲《どうせい》していた、下座《げざ》の三味線|弾《ひ》きのお玉さんの根岸の家で死んだのは、つい一咋年のことだったが、なんだか随分昔のような気もする。その間に、あんまり私も苦労をしすぎたせいかも知れない。そう云や、清ちゃんと私とは同じような性分なのかも知れないな。……と、そんなことやら、あそこで壁を向いてひとり稽古に夢中になっている清ちゃんの後姿を見ながら聞いていると、可笑《おか》しな落語もちっとも可笑しくなかったことやらを、思い浮べて、お照は何気なしにふと淋《さび》しい微笑を誘われていた。……
 弘はあれっき
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