りまだ帰って来ないのである。親ゆずりでお祭りなんぞも好きな性分だから、父と一しょになって、神輿《みこし》の世話を手つだいだしているのかも知れない。そうして、そんな弘よりも先きに、中洲へ出かけていたおばさんの方がかえって来てしまったのである。
「誰かと思ったらお照だったのかい?……弘ちゃんは……」
「いましがたお向うのおばさんがいらっしって、お使いにやられたわ。」
おばさんは長火鉢の向うの、さっきまで弘の坐っていた場所へ、
「ああ草臥《くたび》れたこと。」と言いながら、どっかと坐った。
「あたし、そこまで髪を結いにきたの。……ちょっと寄ったら留守番をおおせつかっちゃった。……でも、もうこうしちゃいられないわ。また、来ますわ。」
「まあお茶でも飲んでおいでよ。」
「お茶なら、ほんとにあたし、もう沢山。……なんだかきょうの髪、すこし根がつまりすぎて……」お照はさっきと同じようなことを言って、まだ気になってしようがないように自分の髪へちょっと手をやっていたが、そのとき急に、向うの家のなかからどっと若い娘たちの笑いくずれる声が起った。――「お向うは大へんね。……」
「姉さんも、この頃はお花にばかり夢中でね。……それでも、五六人、どうやらお弟子《でし》が出来たのさ。」
「そうだそうですね。」
「でも、おかしいんだよ。……そのお師匠さんがさ、お弟子のことを一々私に話すんだがね。……どうもこの娘は器量はいいがすこしお転婆《てんば》のようだとか。……性質はよさそうだけれど、すこし器量がよくなくってとか。……何のことはない、まるで弘ちゃんのお嫁さん捜しをしているようなもんだからね。」
「ふ、ふ、今からそんな心配をされてた日にゃ、弘ちゃんもやりきれないわね。」
「姉さんたら、本当にそんな心配ばかりしているんだよ。……面白いったらありぁしない。……あんなにおとなしい子だから、女にでも欺《だま》されて、清ちゃんみたいになりぁしないかってさ……」
「まさか。」
お照は笑いながら何ということなしにちらりと顔を赧《あか》らめた。
「でもね、弘ちゃんがあそこで、ああして勉強している後姿を見ているとね、なんだか清ちゃんのことが思い出されてならないんだよ。……面《おも》うつりがするんだろうね。……だけど、そんなことを姉さんに言おうものなら、気にしそうだから、あたしゃ黙っているのさ。」
「あら、あたしもさっきそんな気がしたわ。……やっぱり血筋なのね。……」そう言いかけながら、お照は急に気がついたかのように、「ああ、こうしちゃいられないわ。……また、来ますわ。……じゃ、左様なら。」と言って、性急そうに立ち上ると、すこし蓮葉《はすは》に下駄を突っかけながら、がらりと格子を開けて出ていった。――
「あら、何か忘れものをしていったよ。……何て、まあ、そそっかしやさんなんだろう。……」おばさんはそう口のうちで呟《つぶや》きながら、長火鉢の傍に置き忘れられてある黄いろい表紙の本を取り上げた。字のよく読めないおばさんには、モオパスサンという片仮名だけはわかったが、それがどんな題の、どんなことを書いた本だかは、すこしもわからないのである。……
[#改ページ]
秋
私は震災後、しばらく父と二人きりで、東京から一里ばかり離れたY村で暮らしていた。その小さな、汚《きたな》い、湿気の多い村は、A川に沿っていた。その川向うは、すぐその沿岸まで、場末のさわがしい工場地帯が延びてきていた。私の父方の親類の家がその村にあったので、私は幼い頃、ときどき父に連れられて写真機などを肩にしては、この辺へも遊びに来たものだった。が、それっきり、その地震の時まで、私は殆《ほと》んどこの村を訪れたことがなかった。――そんなに足場の悪い、貧弱な村も、その地震の直後は、避難民たちで一ぱいになり、そのひっそりした隅々《すみずみ》まで引っくり返されたように見えたが、二週間たち、三週間たちしているうちに、それらの人々も、或るものは焼跡へ帰って行ったり、又、他のものは田舎《いなか》の、それぞれに縁故のある村へ立ち退《の》いて行ったりして、この村も、丁度コスモスの咲き出した頃には、漸《ようや》くその本来のもの静かな性質を取り戻しつつあった。
私は父とその村に小さな家を借りて、しばらく落着いていることにしたのだが、その頃私はと言えば、何んとも言いようのない、可笑《おか》しな矛盾に苦しめられていた。私は私の母を、その地震によって失ったばかりであった。それにもかかわらず、私には自分がその事からさほど大きな打撃を受けているとはどうしても信じられなかったのだ。私自身にもそれが意外な位であった。そうしてそれは、その村で私の出遇《であ》った昔の知人どもが、「まあ、お可哀そうに……」と言いたげな顔つきで私を見ながら、
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